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2020年4月25日土曜日

STAY HOME(テレビ山梨)『若者のすべて』[志村正彦LN254]

 今日2回目の記事となる。

 前の記事「Virtualな四季」をUPした後、メールチェックの仕事に戻り、夜6時頃からUTYテレビ山梨(TBS系列)の「報道特集」を見ていた。当然だが「コロナ危機」の特集である。

 途中でいきなり、志村正彦の声が聞こえてきた。フジファブリック『若者のすべて』が流されていた。画面を見ると、新倉山浅間公園の桜の風景が広がっていた。忠霊塔(五重塔)、富士山、富士吉田の街並が見える。
 頭が混乱した。これが番組の一部でないことだけは確かだ。すぐに録画ボタンを押した。後で再生して確認した。

  『若者のすべて』の最後のブロックがBGMとして流される。右下には「♪若者のすべて♪ フジファブリック」のテロップ。ドローンで空撮したのだろう。風景の様子や周囲の状況からして最近の撮影だと思われる。富士山の美しい姿、そして「いつもの丘」の風景、最後に「STAY HOME」の文字が現れた。右下に「50TH UバクUTY」のクレジット。ここでやっと了解した。この映像はテレビ山梨が制作した「STAY HOME」の公共的な広告だということを。UTYは今年が開局50周年ということで、一連のキャンペーンを行っているが、その一つでもあるのだろう。

 番組終了後、UTYテレビ山梨のサイトを見ると、「STAY HOME 新型コロナに警戒しよう!」という特設ページ に、STAY HOME(30秒)とSTAY HOME(60秒)の二つのversionが置かれていた。ありがたい。STAY HOME(60秒)が『若者のすべて』versionである。ぜひご覧になってください。

 STAY HOME(30秒)の方は、サンボマスターの『できっこないをやらなくちゃ』をBGMにして、甲府盆地の釜無川あたりの風景が映されていた。つまり、UTYテレビ山梨の制作部は、「STAY HOME」30秒version サンボマスター、60秒version フジファブリックの音源を使ったことになる。甲府盆地と富士北麓の二つの地域別のversionとも言える。
 
 『若者のすべて』の歌詞は次の最後のブロックである。


  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな

  ないかな ないよな なんてね 思ってた
  まいったな まいったな 話すことに迷うな

  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ


  STAY HOME(60秒)のセンスが素晴らしい。映像と音源が相乗効果を上げている。志村正彦の優しい声が美しい風景に溶け込んでいる。
 志村正彦・フジファブリックが誕生したのはこの山梨である。しかし、この曲がいわゆる「山梨枠」として使われたのではないだろう。若者のすべてを表現する類い稀な詩として選ばれたのだと僕は考える。

 「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」のところで、富士山と「いつもの丘」の桜が映し出される。 あの美しい桜を「今年は見られなかったけど…」「来年はきっと見られる」。
 
 そのための「STAY HOME」である。
 

Virtualな四季 [志村正彦LN253]

  「S/R(Songs to Remember)」を4回続けたが、今回は久しぶりに志村正彦ライナーノーツに戻りたい。

 コロナ危機の状況下、大学の新学期は延期され休校状態になっている。僕も在宅勤務が基本となった。「Stay Home」である。
 5月中旬から予定されている遠隔授業、Online授業の環境整備の担当として、教職員、学生、ネットワーク会社と、毎日二十を超えるメールのやりとりをしている。校務の仕事がものすごく増えて、正直、とても疲れている。オンとオフの切り替えができない。実務文書やメールばかり書いているので、ブログのテキストを書くことは一種の解放となる。

 我が家のCDプレーヤーのトレイには通常、フジファブリック『SINGLES 2004-2009』か『シングルB面集 2004-2009』が載せてある。フジファブリックは、PCやネットワークでなく、CD音源ともう20年も愛用している小型のブックシェルフスピーカーを通した音で聴きたいのだ。
 この前、『SINGLES 2004-2009』を久しぶりにかけた。このところ、音楽を聴く気持ちにも慣れないほど仕事に追われていた。そんな状態で、スピーカーが、1. 桜の季節、2. 陽炎、3. 赤黄色の金木犀、4. 銀河と、四季盤の曲を次々に鳴らしていった。目をつぶって志村正彦・フジファブリックの春夏秋冬の歌に耳を傾けた。

 三月末から家にいる時間が多くなり、外の世界と隔てられている。季節から遠ざかっているという感覚だ。そんな自分の身体に、「桜の季節」、「陽炎」の季節、「赤黄色の金木犀」の季節、「きらきらの空」の季節が順々に訪れてくる、そんな気分に浸ることができた。
 僕のまわりに志村正彦が描く季節が動き出していく。「Virtualな四季」を擬似的に経験した。


桜の季節過ぎたら 遠くの町に行くのかい? 桜のように舞い散って しまうのならばやるせない    『桜の季節』


窓からそっと手を出して やんでた雨に気付いて 慌てて家を飛び出して そのうち陽が照りつけて 遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる    『陽炎』


赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって 何故か無駄に胸が 騒いでしまう帰り道      『赤黄色の金木犀』


きらきらの空がぐらぐら動き出している! 確かな鼓動が膨らむ 動き出している!    『銀河』


 四季の移り変わりと共に、「遠くの町」「家」「帰り道」「丘」と、場所も動いていく。春夏秋冬の映像が頭の中に浮かんでくる。四季の時間と場所、この二つが連動して、志村正彦の季節の感覚とシンクロナイズしていくような感覚になった。


 時を少し遡りたい。
 3月26日(木) 午後3時08分から、NHK総合テレビで『にっぽん ぐるり「若者のすべて~フジファブリック・志村正彦がのこしたもの~」』(NHK甲府制作)が再放送された。そのことに触れたLN251で、槇原敬之『若者のすべて』の歌とコメントの映像がどうなるのかが気になると書いた。
 結果は、柴崎コウの写真を背景に彼女が歌う『若者のすべて』が流された。当然ではあろうが、やはり変更されていた。柴崎コウの『若者のすべて』の純度の高い声は素晴らしい。

 一昨日、4月23日の夜、日本テレビ「今夜くらべてみました」は、『菅田将暉が熱弁!大切な事は全てJ-POPから学んだ男と女』というタイトルだった。このタイトルに惹かれて、番組を見てみた。菅田将暉は『茜色の夕日』を聴いて音楽を始めようとしたほど志村正彦の作品を敬愛している。もしかするとという予感があった。番組は、ゲストの菅田将暉(20代)、平川美香(30代)、平野ノラ(40代)の3世代が、大切な事を学んだ曲を選んでいくという内容だった。

 「落ち込んでいる時に聴く曲」でくらべてみましたというテーマで、菅田将暉はフジファブリック『夜明けのBEAT』を選んだ。菅田は、「モテキ」の曲です、歌詞も「バクバク鳴ってる」みたいなわりと上げ目の曲で、と紹介していた。『夜明けのBEAT』が志村の声で流されて、画面にはフジファブリックの写真と共に次のような表示が出た。

  フジファブリック「夜明けのBEAT」2010
  ドラマ&映画「モテキ」の主題歌
  心踊る気持ちを疾走感あふれるビートで表現

 もっとコメントがほしかったのだが、こういう構成の番組にそれを求めても仕方がない。菅田将暉のフジファブリック愛が充分に伝わってきた。この後で『若者のすべて』がBGM的に流されるシーンもあった。

 翌日の24日、NHKBS1で「ひとモノガタリ」の『若者のすべて ~“失われた世代”のあなたへ~』が再々放送された。放送局は制作が困難なために、このところ再放送が多くなっている。
 そういう状況下ではあるが、 志村正彦の番組がこれだけ繰り返しオンエアされるのは、彼の人と音楽に対する高い評価があるからだろう。

2020年4月18日土曜日

Peter Gabriel and Kate Bush『Don't Give Up 』[S/R004]

 S/R(Songs to Remember)第4回は、Peter Gabriel and Kate Bush(ピーター・ゲイブリエルとケイト・ブッシュ)の『Don't Give Up 』。

 Peter Gabrielは、洋楽の中で最も愛する音楽家だ。ロックの歴史上、才能という観点で彼は最も優れた存在であろう。

 出逢いは、Genesisの1973年の『GENESIS LIVE』だった。僕が初めて買った輸入盤だった。「ミュージックマガジン」の輸入レコード店(どの店かは覚えていない)の広告でアルバムの奇妙な写真に惹かれて通信販売で購入した。つまり「ジャケ買い」だった。
 Genesisの存在は雑誌を通じて少しだけ知っていたが、音楽は聴いたことがなかった。ラジオで流されることもなかったと思う。70年代前半の日本では、英国プログレッシブロックでの知名度は最も低かった。GENESISやPeter Gabrielが日本でもブレイクするのは70年代後半から80年代初頭にかけての頃である。

 『GENESIS LIVE』を聴いて、その不可思議な世界に魅了された。Peter Gabriel(ボーカル、フルート、パーカッション)、Tony Banks(キーボード)、Mike Rutherford(ベース)、Steve Hackett(ギター)、Phil Collins(ドラムス)の5人編成。Peter Gabrielの声と歌。変幻自在なメロディとリズムを奏でる演奏。シアトリカルな演出。聖書や神話、物語や小説から題材を取った奇想天外な歌詞はほとんど理解不能だったが、断片的に聞こえてくるフレーズが耳にこびりついてきた。Peter Gabrielはロックの詩人として高く評価されていた。

 1974年リリースの『The Lamb Lies Down on Broadway』(眩惑のブロードウェイ)は、GENESIS の最高傑作だった。インナースリーブに記された物語や歌詞を読み込んだ。英米の文学へ関心を持つようにもなった。しかし、1975年、Peter GabrielはGENESISを脱退。悲嘆に暮れたのだが、1977年に彼はソロアーティストとして復活した。その後の活躍はここで記すまでもないだろう。

 このPeter Gabriel &Kate Bushの 『Don't Give Up 』は、1986年の5枚目ソロアルム『So』に収録。Kate Bushも好きだったが、二人のデュエットと知って初めはとまどっていたが、レコードをかけるとその出来映えに驚いた。Godley & Creme(ゴドレイ&クレーム)制作のミュージックビデオも秀逸だった。背景の太陽が日食になり、コロナらしきものが見える。特に象徴性はないのだろうが、コロナ危機の状況下の偶然に目を引きつけられた。最後になると、日食が終わり太陽の光が戻ってくる。二人のシルエットが光の中に消えていく。

 この歌は、大恐慌時代の貧困に苦しむアメリカ人を撮影した写真から着想を得て、サッチャー時代のイギリスで失業に苦しむ人々を重ね合わせているようだ。
 「I am a man whose dreams have all deserted 僕はすべての夢をなくした男だ」と語る男に、「Don't give up 'cause you have friends あきらめないで あなたには友だちがいる / Don't give up You're not the only one あきらめないで あなたは一人じゃない」と語りかける女。
 女は「'cause I believe there's the a place/There's a place where we belong 信じている 私たちの居場所があることを」と歌っている。

 誰もが「居場所」に帰り、安らぎが得られることを祈りたい。
   Don't give up.



  The official Don't Give Up video.  Directed by Godley and Creme.




Don't Give Up    [ Peter Gabriel ] 

In this proud land we grew up strong
We were wanted all along
I was taught to fight, taught to win
I never thought I could fail

No fight left or so it seems
I am a man whose dreams have all deserted
I've changed my face, I've changed my name
But no-one wants you when you lose

Don't give up 'cause you have friends
Don't give up you're not beaten yet
Don't give up I know you can make it good

Though I saw it all around
Never thought that I could be affected
Thought that we'd be last to go
It is so strange the way things turn
Drove the night toward my home
The place that I was born,  on the lakeside
As daylight broke, I saw the earth
The trees had burned down to the ground

Don't give up you still have us
Don't give up we don't need much of anything
Don't give up  'cause somewhere there's a place where we belong

Rest your head
You worry too much
It's going to be alright
When times get rough
You can fall back on us
Don't give up
Please don't give up

Got to walk out of here
I can't take anymore
Going to stand on that bridge
Keep my eyes down below
Whatever may come
and whatever may go
That river's flowing
That river's flowing

Moved on to another town
Tried hard to settle down
For every job, so many men
So many men no-one needs

Don't give up 'cause you have friends
Don't give up you're not the only one
Don't give up no reason to be ashamed
Don't give up you still have us
Don't give up now we're proud of who you are
Don't give up you know it's never been easy
Don't give up 'cause I believe there's a place
There's a place
Where we belong

Don't give up
Don't give up
Don't give up


2020年4月15日水曜日

HINTO『エネミー』[S/R003]

 前回のS/R[Songs to Remember]は、ポール・サイモンの『The Boxer』だったが、昨日たまたまNHKBSプレミアムで映画『卒業』[The Graduate](マイク・ニコルズ監督,1967)」が放送されたので、録画して鑑賞した。この映画はかなり前に見たことがあるが、今回の印象はそれとはまったく異なっていた。映画、音楽、文学の名作は、もう一度あるいは何度でも繰り返し見たり読んだり聞いたりすると、新たな発見がある。そのことを再確認させられた。
 サイモン&ガーファンクルのいくつかの名曲が場面場面で流される。でも曲自体は映画の展開とは独立している。歌と物語が分離されているのだ。『The Boxer』はなかなか複雑な作品であるが、S&Gの声はとても美しく響きわたっていた。

 S/R[Songs to Remember]第3回は、HINTOの『エネミー』ライブ映像。『The Boxer』からの連想というわけではないが、「敵」をモチーフとするこの傑作を紹介したい。

 この映像の収録は2014年9月23日の渋谷CLUB QUATTRO。これもたまたまだが、このライブに行っていた。ただひたすら凄い演奏だった。得がたい音の体験だった。 安部コウセイのボーカル・ギター、伊東真一のギター、安部光広のベース、菱谷昌弘のドラムス。僕にとっては、1980年新宿ロフトでのFRICTIONライブを凌駕する衝撃だった。

 この映像はそのライブを撮影した「official bootleg LIVE MOVIE」である。クレジットを見ると、ディレクターが須藤中也(m社 映像部)であることに初めて気づいた。あのフジファブリック『FAB BOX III』の映像の制作者である。あの日のライブの迫真性を忠実に捉えて、映像に見事に再現している。僕は会場の一番奥の方に立っていた。一番引いた映像を撮っているカメラのすぐ後ろだった。演奏後の静かな熱狂の余韻を示す観客の拍手のシーン。あの日の記憶を共有できる。

 『エネミー』の歌詞にある「敵」はある抽象としても一つの具象としても捉えることができるのだろう。見えるものも見えないものもある。そもそも敵であることが明らかなものも明らかでないものもある。

 安部コウセイ・HINTOは「敵の声を掻き消せ/歌声」と歌っている。「歌声」が「敵の声」を掻き消す。この歌の究極のvisionだ。安部のそしてHINTOの「歌声」がこの時代に突き刺さってくる。僕らの「歌声」にこだましてくる。


  HINTO 『エネミー』【official bootleg LIVE MOVIE】
  2014.09.23@渋谷CLUB QUATTRO 
  dir.須藤中也(m社 映像部)
  撮影.鈴木謙太郎(m社 映像部)/大石規湖/ 宮本杜朗




  HINTO  『エネミー』(作詞:安部コウセイ  作曲:HINTO)

       こんなモグラみたいな眼で見つめても
              地図がぼやけて読めるわないだろ

              こんなO脚の足で歩いても
              そこに辿り着ける筈がないだろ

              目をつぶって祈らないで
              救いなんて待たないで
              やがてそうして受けとめて
              決めたから
              決めたから

              こんな汗にまみれた手で掴んでも
              すぐにすべり落ちてしまうだけだろ

              耳すまして怯えないで
              許しなんてこわないで
              だからどうした?はね返して
              今からだ
              今から行く

              『奴の次はおまえさ』
              闇にまぎれ囁く
              どこへゆこうと同じさ
              敵の声を掻き消せ
              歌声

2020年4月13日月曜日

Paul Simon 『The Boxer』[S/R002]

 3月31日、ポール・サイモン(Paul Simon)が「The Boxer」を歌う映像を公開した。この時期の演奏ということはおそらく、「コロナ危機」と闘うニューヨークそして全世界の「ボクサー」に対して捧げたのだろう。

 「The Boxer」はサイモン&ガーファンクル(Simon and Garfunkel、S&G)の言わずとしれた名曲である。70年代前半、日本でもS&Gの人気は圧倒的だった。それこそラジオに毎日流れるくらいの。僕もファンだった。英語の歌詞に興味を持つきっかけにもなった。

 1982年5月、S&Gの初来日公演に行った。今はなき後楽園球場が会場だった。記憶はうすれてしまったが、ポール・サイモンとアート・ガーファンクルの二人の声が大空を駆け上がるように綺麗に広がっていたことは覚えている。

 2018年9月、彼は故郷のニューヨークでのライブを終えて引退したようだが、現在の危機に対抗するかのように復活して演奏する姿を見ると、ポール・サイモン自身がボクサー、闘う歌い手であり詩人であることが強く伝わってくる。

 79歳になった彼はもちろん年齢相応の姿となっているが、アコースティックギターを抱えるようにして奏でて美しく響かせている。時折みせる深くて優しい眼差し。声はみずみずしく何かと闘っている。最後の「"I am leaving, I am leaving", but the fighter still remains」というところが胸に突き刺さる。「still remains」が繰り返されるのだ。

  Paul Simon - The Boxer (Acoustic Version March 2020)




I am just a poor boy, though my story's seldom told
I have squandered my resistance for a pocketful of mumbles, such are promises
All lies and jest, still a man hears what he wants to hear
And disregards the rest, hmmmm

When I left my home and my family, I was no more than a boy
In the company of strangers
In the quiet of the railway station, runnin' scared, laying low
Seeking out the poorer quarters, where the ragged people go
Looking for the places only they would know

Lie la lie, lie la lie la lie la lie
Lie la lie, lie la lie la lie la lie, la la lie la lie

Asking only workman's wages, I come lookin' for a job
But I get no offers
Just a come-on from the whores on 7th Avenue
I do declare, there were times when I was so lonesome
I took some comfort there, lalalalalalala

Now the years are rolling by me
They are rockin' evenly
I am older than I once was
And younger than I'll be; that's not unusual
Nor is it strange
After changes upon changes
We are more or less the same
After changes we are more or less the same

Lie la lie, lie la lie la lie la lie
Lie la lie, lie la lie la lie la lie, la la lie la lie

And I'm laying out my winter clothes and wishing I was gone
Goin' home
Where the New York City winters aren't bleedin' me
Leadin' me
Goin' home

In the clearing stands a boxer, and a fighter by his trade
And he carries the reminders
Of every glove that laid him down or cut him
'Til he cried out in his anger and his shame
"I am leaving, I am leaving", but the fighter still remains

Lie la lie, lie la lie la lie la lie
Lie la lie, lie la lie la lie la lie, la la lie la lie

2020年4月12日日曜日

フジファブリック『桜の季節』[S/R001]

 「コロナ危機」への対策として、勤務先の山梨英和大学は「緊急クローズ」宣言を出した。学生・関係者の来校が原則禁止。教職員の自宅研修・自宅勤務も始まっている。今、五月以降の遠隔授業の準備に追われている。

 この危機の中で自宅勤務となった方はまだ幸せだろう。通勤して勤めざるをえない方の感染への不安、仕事を奪われて自宅に留まざるをえない方、住む場所がない方の不安と窮乏を思うと、心が痛む。言葉にはどうしても現実との隔たりがある。書くことには距離がある。軽さも伴う。なんともいえない気分になるが、僕にできることはこのblogを続けることしかないので、その原点を確認して歩みを進めたい。

 以前から考えていたことを始めたい。ロックを聴き始めてからもう四十数年の歳月が経った。その間に聴いてきた数々の名曲がある。中にはもう忘れられてしまったような作品もある。また、比較的最近聞いてとても気に入った曲もある。
 このような状況下だからこそ、ネットの映像や音源を活用して、それらの名曲を紹介したい。説明はあまりしないで歌詞を載せるというスタイルでいきたい。

 シリーズ名は「Songs to Remember」の略記[S/R]にした。この名は、Scritti Politti スクリッティ・ポリッティの1982年のアルバム『Songs to Remember』から取った。学生の頃愛聴していたアルバムだ。 "Jacques Derrida" という歌もあって、愉快でラディカルな作品だった。

 一曲目は何にしようと数日考えていた。[S/R]は邦楽、洋楽を問わず、時代もジャンルも関係なく取り上げていく。それでもこの季節にやはり思い浮かんだのは、2004年4月14日リリースのフジファブリック『桜の季節』だ。16年前の曲になる。

 今年の春は、桜を見ることもなく、桜が過ぎ去っていった。日常の風景が少し異なって見えてきた。
 志村正彦は、「ならば愛をこめて/手紙をしたためよう」と歌っている。この「ならば」の前に挿まれる仮定の言葉は無限にあるのだろう。




 フジファブリック 『桜の季節』 
  (作詞・作曲:志村正彦)


  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない

  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない

  oh その町に くりだしてみるのもいい
  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

  坂の下 手を振り 別れを告げる
  車は消えて行く
  そして追いかけていく
  諦め立ち尽くす
  心に決めたよ

  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない



2020年4月5日日曜日

隔たりのある笑い

 前回、志村けんの姓「志村」について述べた。今回は志村けんの「芸」について触れたい。とは言ってもそのことを書ける知識も見識もないので。この間に読んで教えられることが多かった二つの記事を紹介したい。

  西条昇氏(フリーの放送作家、お笑い評論家を経て、現在は江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授)は、『普遍的笑い、比類なき観察眼で 志村けんさんを悼む』(朝日新聞2020.4.1)という追悼文で次のように書いている。


 私が20代の時、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の構成作家を1年だけ担当しました。テレビで見るのとは全く違う、志村さんの笑いへの厳しい姿勢にとにかく驚きました。

 私たちが出したコント案が加藤茶さん、志村さんに次々に却下され、ゼロから考え直すことは日常茶飯事です。たばこの煙がモクモクとする会議室で、数時間も机に突っ伏しながらネタを考えます。志村さんは物静かに考えられていました。そんな中でアイデアの出発点となるのが、加藤さんと志村さんが「あの映画のこの場面が面白かった」と何げなくつぶやく一言でした。

 加藤さんもたくさんの映画を見られていましたが、志村さんの勉強量はすさまじかった。まだ日本で発売されていない海外のコント番組のビデオを輸入業者を通じて取り寄せておられました。自宅にはコメディー映画のビデオも大量にあり、早送りで見ながら面白い所だけ通常再生して確認すると伺ったこともあります。テレビ画面上では飲み屋の延長のようなノリで振る舞っておられましたが、志村さんの笑いはとてつもない知識量から生み出されたものなのです。


 「志村さんの勉強量はすさまじかった」「志村さんの笑いはとてつもない知識量から生み出され」ということを知ると、もう一人の「志村」のことを思いだざずにはいられない。あたりまえのことだが、この勉強量や知識量は表には出てこない。表に出てきたのでは「笑い」も「音楽」も「芸」として成立しないからだ。そのことはしかし、あまり省みられない。


 話題作『ポスト・サブカル 焼け跡派』の著者「TVOD」の一人であるコメカ氏は、『たけしと何が違うのか――コントで勝負した志村けんは、最後の世代の「喜劇人」だった』(文春オンライン)で、ビートたけしと対比しながらこう述べている。


 インターネット以降の世界では、芸人もミュージシャンも作家もみな生身の人間であることをわたしたちは実感として知っている。だが、70~80年代にテレビで活躍しその存在を確固たるものにした志村けんというキャラクターは、その生身の奥行を想像しにくい存在としてのコメディアンの、最後の一人だったのではないだろうか。

 だから私たちは、そういう平板な(これは揶揄ではない)キャラクターが消失してしまったことを上手くイメージできない。ミッキーマウスが生々しく死ぬ場面を想像できないのと同じことだ。

 70年代までの日本には、お茶の間のブラウン管を通し平板なキャラクターたちのドタバタ劇に笑っていられる状況が、良くも悪くもあった。その残滓の消失を、恐らく私たちはいま実感しているのである。


 「その生身の奥行を想像しにくい存在としてのコメディアン」というコメカ氏の捉え方には、なるほど、と頷くものがあった。
 同時代の視聴者としての実感としても、テレビのブラウン管の向こう側にいる存在は、端的に、向こう側の人だった。televisionという言葉どおり、その技術は「tele」遠くにあるものをこちら側に近づけた。日常を日常にもたらした。
 ザ・ドリフターズの時代のテレビ番組では、向こう側とこちら側はブラウン管で隔てられていて、その隔たりによって、「笑い」という非日常と日常がゆるやかに接していた。

 あの時代、ブラウン管のテレビという機械には確固たる存在感があった。茶の間で君臨していたが、それはある種の異物でもあった。電源ボランを押すと非日常が日常と接続し、離すと断絶していった。
 今日、ブラウン管が液晶などのフラットパネルに変わった。その形が象徴するかのように、向こう側とこちら側とはまさしく「フラット」に接続する。小さなフラットパネルをポケットに入れて持ち歩くこともできる。異物感はなくなり、接続が常態化される。そして、「tele」遠くにあるものをこちら側にもたらすのではなく、すべてのものが私たちの身体の近くに接しているような感覚をもたらす。

 ブラウン管のテレビが茶の間に君臨していたあの時代、ザ・ドリフターズや志村けんの時代を思い出す。あの笑いとあの隔たりの感覚が懐かしい。それはゆるやかさでもあった。
 笑いとは隔たりの感覚によって人を解放するものである。隔たりのある笑いがさらに遠ざかっていく。