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2019年12月28日土曜日

チャペルアワー 『セレナーデ』の祈り [志村正彦LN245]

 チャペルアワーという奨励の時間が山梨英和大学にはある。毎週火水木の三日、教職員や学生、時には地元教会の牧師がチャペルアワーの奨励を受け、15分程度の講話を行う。奨励題(テーマ)は自由だが、祈りの奨めになる話をしてそれに促されて祈ることができればよいらしい。今年は「志村正彦の歌-フジファブリック『セレナーデ』の祈り」、関連して旧約聖書の「コヘレトの言葉12:01・12:02」、賛美歌552番「若い日の道を」を選んだ。
 十一月中旬、僕の担当する日が来た。会場のグリンバンクホールは礼拝や講演会で使われ、正面に十字架がある。厳粛な雰囲気の場である。最初に『セレナーデ』の音源を再生した。小川のせせらぎ、虫の音に続いて、志村正彦の声が静かに広がっていく。没後十年の年であり、彼を追悼するチャペルアワーだという意味を僕個人としては見出していた。
 今日は、その時に配った資料の本文をやや長くなるが紹介したい。以前このblogで書いたものをまとめたものである。



 志村正彦の歌-フジファブリック『セレナーデ』の祈り


   フジファブリック『セレナーデ』
   (作詞・作曲:志村正彦)

   1a 眠くなんかないのに 今日という日がまた
     終わろうとしている さようなら

   2a よそいきの服着て それもいつか捨てるよ
     いたずらになんだか 過ぎてゆく

   3b 木の葉揺らす風 その音を聞いてる
     眠りの森へと 迷い込むまで

   4c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
     僕もそれに答えて 口笛を吹くよ

   5a 明日は君にとって 幸せでありますように
     そしてそれを僕に 分けてくれ

   6b 鈴みたいに鳴いてる その歌を聞いてる
     眠りの森へと 迷い込みそう

   7c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
     僕もそれに答えて 口笛吹く

   8c そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
     消えても 元通りになるだけなんだよ


 フジファブリック『セレナーデ』は、2007年11月7日、シングル『若者のすべて』のカップリング曲としてリリースされた。ここでは分析のために2行の各連に1a-2a-3b-4c-5a-6b-7c-8cという数字と記号を付ける。1~8の数字は歌詞の連の順番を、a・b・cはメロディの差異を表している。
 歌詞とメロディの展開から、『セレナーデ』の構成を1a-【[2a-3b-4c]-[5a-6b-7c]】-8cと捉えてみよう。[2a-3b-4c]と[5a-6b-7c]という二つの[a-b-c]のブロックを1aと8cという大きな枠組が包み込んでいる。[2a-3b-4c]と[5a-6b-7c]には繰り返しの部分と微妙に変化する部分があり、『セレナーデ』の時間の推移を表すと共に物語の舞台を形作っている。1aは真夜中の時を、8cは夜明けの時を指し示す。真夜中から夜明けへという時間の中に『セレナーデ』の物語が広がる。

 [1a-2a]では、1a「今日という日」、2a「いたずらになんだか過ぎていく」日々という流れの中に、歌の主体「僕」の日々の想いが重ねられていく。「よそいきの服」のモチーフは文脈を読みとるのが難しい。
 [3b-4c]で「僕」は、「眠りの森」へと「迷い込む」まで「木の葉揺らす風」の「音」を聞いている。「僕」は今日という日に別れを告げて眠りにつこうとしている。だが、すぐには眠れない。耳を澄まして外界の音を聞いていると、「木の葉」が揺れて「風」が吹いている。自然の音が旋律と律動を作り、その音は眠りへと誘う効果を持つ。「流れ出すセレナーデ」は「眠りの森」から聞こえてくる。「僕」はその音に誘われ、「口笛」を吹くようになる。口笛のメロディは次第に言葉を伴う「歌」へと変わっていく。

 [5a]の一節はこの歌の中心に位置づけられるだろう。

5a 明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ

 「明日」は「君」にとっての「幸せでありますように」と、「僕」は祈る。そして、「それ」を「僕」に「分けてくれ」と願う。あくまで「君にとって 幸せでありますように」という祈りが先にあり、その後に「それを僕に 分けてくれ」という願いがある。「君」に向けた祈りの言葉、「僕」へと帰ってくる願いの言葉は、「君」と「僕」の二人を包み込むより大きな存在、他なる存在に届けられようとしているのかもしれない。

 [6b-7c]では、「僕」は「眠りの森」へと「迷い込みそう」になる。3bでは「眠りの森へと 迷い込むまで」とあり、まだ眠りに入る前の時間を描いている。それに対して、6bの「眠りの森へと 迷い込みそう」ではもうすぐにでも「僕」は眠りに入っていく。また、4cの「口笛を吹くよ」に対して、7cでは「口笛吹く」というように、「を」「よ」という助詞が消えている。「口笛を吹くよ」では、「を」という格助詞によって、「僕」の動作「吹く」とその対象「口笛」との関係が明示されている。「よ」という終助詞にも「僕」の意志や判断が添えられている。それに比べて、7c「口笛吹く」では「を」や「よ」という助詞が失われ、「僕」の意識の水位が落ちてくる。作者は、「迷い込むまで」から「迷い込みそう」へ、「口笛を吹くよ」から「口笛吹く」へと表現を微妙に変化させて、「僕」が眠りへ入り込むまでの時間の推移や意識の変化を描いた。

 セレナーデに誘われるようにしておそらく、「僕」は眠りについたのではないだろうか。「僕」は夢の中でもそのまま「セレナーデ」を聞いている。木の葉の音、風の音は夢の中の音へと変わっていく。この曲は冒頭から、虫の音、小川のせせらぎ、自然の音がずっと鳴り続けている。自然の奏でる音と楽曲の音とが混然一体となっていく。
 言葉では語られていない部分を想像で補う。「僕」の夢の中で「僕」は「君」に会いに行く。「僕」と「君」との束の間の逢瀬がどのようなものかは分からない。すべては夢の中の出来事。起きたことも、起こりつつあることも、これから起きることも、夢から覚めた後に消えてしまう。夜明けが近づく。「僕」の夢が閉じられる。「セレナーデ」も終わりを迎える。夢からの覚醒の直前であろうか、「僕」は「君」に最後の言葉を告げようとする。

8c そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
  消えても 元通りになるだけなんだよ

 「お別れのセレナーデ」が響く。「僕」はどこに行くのか。夢の中の出来事であれば「消えても 元通りになる」。「僕」は「君」にそう言い聞かせる。夢の中の世界は消えても、元の世界はそのまま在り続ける。この言葉もまた、虫の音や小川のせせらぎの重なる自然の音の群れに溶け込んでいく。『セレナーデ』の音が次第に消えていくのだが、「消えても 元通りになるだけなんだよ」という一節は聴き手の心の中のどこかにこだまし続ける。

 志村正彦は短い生涯の中で、消えていくもの、無くなるもの、不在となるものを繰り返し歌ってきた。それと同時に、現れ出でるもの、在り続けるものについての祈りのようなものも歌ってきた。
 彼は『FAB BOOK』という書物の中で歌詞について非常に印象深いことを述べている。

 歌詞は自分を映す鏡でもあると思うし、予言書みたいなものでもあると思うし、謎なんですよ

 「予言書みたいなもの」という言葉は、すでに彼の生涯を知っている現在という時点では、深い悲しみとある種の驚きをもたらす。しかし、彼の死という事実から彼の詩の言葉をすべて意味づけるような行為については慎まなければならない。だがそれでも彼の作品から、彼の生涯とまではいかないまでも、その軌跡の断片のようなものがあらかじめ歌われている、そのような想いが浮かぶことが私にはある。




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