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2019年7月28日日曜日

「めくるめくストーリー」-『同じ月』4 [志村正彦LN226]

 一月ぶりに志村正彦・フジファブリックの『同じ月』に戻りたい。
 前回は第一ブロックを論じたので今回は第二ブロックとなる。このブロックは次の二つからなる。


  月曜日から始まって 火曜はいつも通りです
  水曜はなんか気抜けして 慌てて転びそうになって

  イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです
  何万回と繰り返される めくるめくストーリー


  木曜日にはやる事が 多すぎて手につかずなのです
  金曜日にはもうすぐな 週末に期待をするのです

  家にいたって どこにいたって ホントにつきない欲望だ
  映画を見て感激をしても すぐに忘れるから


 月曜日、火曜日は「いつも通り」だが、水曜日は「気抜け」し、木曜日は「やる事」が多すぎて、金曜日になると「週末」に期待する。
具体的な描写があるわけではないが、歌の主体の一週間のリズムが伝わってくる。「慌てて転びそうになって」「多すぎて手につかずなのです」「イチニサンとニーニッサンで動いてく」などというユーモラスな語り口から、作者志村正彦の素顔が現れている。飾り気のない実直さとでも言うべきか。そうして冷静に自分を観察している。

 志村正彦は、「イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々」の中に「何万回と繰り返される めくるめくストーリー」を物語っていく。彼は繰り返される日々の出来事から、あまり気づかれることはない微細なものであるが、何かを契機に輝きはじめるものを見つけ出す。例えばそれは「四季盤」の作品に傑出した形で表現されている。一年という単位の繰り返しは、春・夏・秋・冬という季節の循環となる。その反復の中で、「桜」「陽炎」「金木犀」「銀河」の物語を紡ぎ出す。定型的な表現ではなく志村の眼差しが捉えた独特の景物の「めくるめくストーリー」でもある。

 この『同じ月』では繰り返しの単位が一週間となっている。月・火・水・木・金そして週末という、より日常的な単位での反復である。題名に「月」が入っていることも示唆的である。一週間が何度か繰り返されると「月」の単位となる。また、「昨日、明日、明後日、明明後日」と歌われる『ルーティーン』は、一日単位の繰り返しを描いている。
そして、アルバムタイトルの『CHRONICLE』は年代記・編年史のことだから、一年単位の繰り返しによって築かれていく人生の年代記を指している。

 「家にいたって どこにいたって ホントにつきない欲望だ」という表現がある。志村のすべての歌詞の中で「欲望」という言葉が使われているのはこの箇所だけである。尽きることのない欲望とは何か。具体的な文脈が語られていないのであくまでも想像になるが、歌うことの欲望、作品を創ることの欲望だと僕は捉える。
 時間の反復の感覚は、一年、一月、一週間、一日という単位で繰り返し表現されてきた。そのような時間の中の「めくるめくストーリー」を歌うのが志村正彦の欲望である。志村はその欲望について何も譲ることがなかった。欲望に忠実であった。優れた表現者の欲望とはそのようなものである。

2019年7月21日日曜日

NHK『沁(し)みる夜汽車』

 昨夜、7月20日、BS1スペシャル『沁(し)みる夜汽車 2019夏』が放送された。NHKのwebで次のように紹介されている番組だ。

寝入りばなの一時、旅情ある夜行列車がゆく。鉄道にまつわる素敵なお話、心に染み入るエピソードを一日のおわりにお届け。出会い、別れ、日々の営み。鉄道はそれぞれの人生にとって大切な役割を担っている。その中でも、人々の心に“沁みる”物語を取り上げご紹介していく。番組は駅や路線にまつわる心温まるストーリー、本当にあった「沁みる話」を現場取材のドキュメンタリー部分と再現イメージで構成していく。

 制作者側から“沁みる”物語を強調されると、少し引いてしまう人が多いかもしれないが、この『沁(し)みる夜汽車』は僕のようなすれっからしの心にも沁みてきた。

 「沁」は常用外漢字なので「(し)みる」と読み仮名が当てられている。そのような表記を避けるために他の字で代用することをしないで、この「沁」の字をあくまで使ったことには意味がある。漢字の形はまさしく文字通りである。「氵」と「心」が織り込まれている。「氵」はそのまま「涙」と捉えてもいい。あるいは何か心の中で流れていくもの、静かに流動するものとも考えられる。なにかが心の中を流れていく。それが「沁みる」なにかなのだろう。

 昨夜の五つの物語はどれも素晴らしかったのだが、「親子をつなぐ鉄道画~西武鉄道~」「50歳からの再出発~紀州鉄道~」がとりわけ沁みてきた。ネタバレになってしまうので内容には触れないが、親と子のすれ違いの行方を追う物語であった。

 今回の番組は、4月に放送された『沁(し)みる夜汽車』の続編である。4月放送版の第1話は「49歳差の友情~JR中央線~」だった。5年前のJR中央線が舞台。山梨から東京に単身赴任してきた56歳の男性が、電車の中で具合が悪くなった小学1年生の男子を助けたことから交流が始まる。49歳の差を超えた不思議な友情の物語。あたたかくてやわらかなものが沁みてくる。

 題名に「夜汽車」とあるが、「夜汽車」が舞台となっているわけではない。タイトルバックなどの映像として流されていて、物語全体の象徴として使われている。その夜汽車のシーンを見ると、志村正彦・フジファブリックの『夜汽車』が僕の心の中で再生されてくる。


  長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
  夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる

  話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう

 
 この歌についてはもう何度か書いてきた。新たに付加できることもないのだが、「FAB LIST I - 2004~2009」投票に関連して、歌の完璧な叙情性という観点からすると、『夜汽車』はベスト3に入る作品であろう。
 志村の歌う「夜汽車」の物語は、具体的な出来事としては語られることがない。「長いトンネル」「見知らぬ街」「夜」「明かり」「峠」と、通り過ぎる場と時が描かれるだけである。
 「眠りの森へ行く」「あなた」に「本当の事を言おう」とする歌の主体。主体の想いそのものが叙情に純化されて、聴く者に静かに届けられる。聴く者の心に沁みてくる。
 なにかが心の中を静かに深く流れていく。それが志村正彦の叙情である。


 BS1スペシャル『沁(し)みる夜汽車』はもともと一話10分の作品。昨夜は五本分まとめての総集編だった。明日7月22日午後10時40分から一話ずつNHKBS1で放送される。

2019年7月10日水曜日

上映會のあるシーン[志村正彦LN225]

 今日7月10日は志村正彦の誕生日。そして『FAB BOX III』の発売日。予想より大きな箱が我が家にも昨日届けられた。まだ開封していない。なんだかもったいない気がする。週末までそのままにして落ち着いた気分の時に聴くことにしよう。

 上映會について書き切れなかったこと、とても大切なことを記したい。

 新装版『志村正彦全詩集』は会場入口のすぐ横で先行販売されていた。大きな看板があって目を引いた。
 初版は箱入りで重厚感があったが、新装版は全体として軽やかな印象だ。装丁家は初版と同様に名久井直子さん。スカイブルー系の薄い青色にかすかに緑系の色が入りこんでいる色合い。手触りがよくてめくりやすい紙質。あまり重くないので手に携えるのにも適している。新装版は手元に置いていつでも開いて読める。そんな親しみやすさがある。(まるで近代詩人の詩集のようだった質感を持った初版は本自体の価値が高い。愛蔵版や保存版としてこれからも愛されるだろう)


 購入してすぐに本を開けると、扉の志村正彦の写真が変更されていた。それを見て僕は心が動かされた。まだ一般発売されていないのでその写真について記すことは控えたいが、詩人としての志村を表象する素晴らしい写真である。この日の記念品として志村の描いたヤクザネコのステッカーが付いていた。しおりのようにして挟み込んだ。
  ホールで僕等の近くに座っていた二十代前半の男子二人もこの詩集を熱心に読んでいた。頁をめくり詩を追いかける眼差し。購入できた喜び。微笑ましく頼もしい。初版は法外な値段で取引されていて入手困難だった。だがこの新装版の発売によって、志村正彦の詩が新しい読者を獲得していくことだろう。最近聞き始めた若者たちが志村の詩の全貌に触れることができるのはとても喜ばしい。



 上映會について付言すれば、設置された装置の限界なのか、スクリーンに投影された映像、特に音質や音量にやや問題があったことは否めない。耳への刺激が少し強かったが次第に慣れてきた。個人が室内でDVD鑑賞する場合には映像も音声も調整可能ではあろうが。
 『FAB BOX III』のDVDは「Official Bootleg Live & Documentary Movies」と記されていたが、上映會の映像を見る限り、「Live」作品というよりも「Documentary」作品の色合いが強い。観客席の後ろから撮影された映像には客の後ろ姿や腕や指の動きが映り込んでいる。ノイズのように思われるかもしれないが、まるでその場にいるような臨場感を感じることもできる。やはり「Documentary」なのだ。2009年のファンの熱い想いが伝わってきた。
 

 上映中は冷静に観賞することにつとめたが、悲しみがこみ上げてきたシーンがあった。志村が富士急ハイランドで来年コンサートを行うと告知したシーンである。そのことを誇らしく思い、そして自らを鼓舞するかのようなポーズもあった。
 2010年7月の富士急ハイランドでどのようなコンサートが開かれたかを僕たちは知っている。そのことを知っている僕たちが、今、スクリーンの中で、故郷での大規模コンサートを告げる2009年の志村を目撃している。時間は確かに流れた。映像は時間をさかのぼろうとした。真逆の時間の流れの中で時が交錯し、スクリーンの志村が幻のように見えてきた。

 2010年は志村正彦・フジファブリックにとって飛躍となる年だった。富士急ハイランドはかつて奥田民生の音楽と出会った場所、志村の音楽家としての原点である場所だった。上映會会場の富士吉田市民会館とともに富士急ハイランドが彼にとってどれだけ意味のある場だったか。音楽家としての彼の軌跡の一つの到着点となり、そして新たな出発点となる地だった。

 残酷な現実が残された。
 そのように書いてはいけないのかもしれないが、上映會のあのシーンを見てその言葉が浮かんできた。上映會の最後までその想いを引きずっていた。でも、最後の最後の「闘っている」という志村の言葉を聴いて、引きずる想いから少しずつ離れていくことができた。
 残酷な現実が残されたなどと書くのはある種の感傷なのだろう。彼は残酷な現実とも闘っていたのだ。そして時間とも闘っていた。

 志村正彦は闘っていた。

 


2019年7月7日日曜日

7月6日『FAB BOX III 上映會』[志村正彦LN224]

 昨日7月6日、フジファブリック志村正彦没後10年『FAB BOX III 上映會』を見てきた。午後3時近くに僕と妻の二人は会場に到着。富士吉田市民会館に来るのも2014年4月の『live at 富士五湖文化センター上映會』以来だ。

 ほんの少しだけ雨が煙っている。富士山は残念だが姿を現さない。
 会場「ふじさんホール」の収容数は800人、午前と午後の二回上映ということは今日ここに1600人の志村正彦・フジファブリックを愛する人々が集う。これはやはり特筆すべきことだ。列に並んでいる人々を眺める。志村の同世代のファンが多いが、20代前後の若者たちもいる。そして意外というべきか、男性も少なくはない。

 会場の入り口には大きなポスターがスタンドにかけられていた。




 さっそく同時開催の「路地裏の僕たち」企画の『志村正彦展』に並ぶ長い列に加わったのだが、開始時間に間に合いそうもない。列から離れ、先行発売されていた新装版『志村正彦全詩集』を購入。薄青色の装丁になり手に取った感触もいい。新しい読者を獲得していくことだろう。

 会場に入った。前方に新倉山浅間講演から見た富士山の緞帳が広がる。ほぼ定刻通り、今村圭介ディレクター(EMI Records / UNIVERSAL MUSIC)の前説から上映會が始まった。DVDの総収録時間は430分、つまり7時間10分で偶然志村正彦の誕生日と同じ数字になったという話に感心した。今村氏の仕事のおかげで『FAB BOX Ⅲ 』そしてこれまでの『Ⅰ』も『Ⅱ』も存在している。

 あの大地讃頌のコーラスがしばらく流れてから幕が上がり映像がスタート。まず2004年のデビューから2009年までの歴史が振り返られる。中では『CHRONICLE』録音地ストックホルムのインタビュー映像が興味深かった。「スウェーデンレコーディングの未収録オフショット映像」から編集したものだろう。これまで公開されていない発言もあり、『FAB BOX III 』を入手してから丁寧に追っていきたい。

 演奏シーンではいくつか興味深いことがあった。
 「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2005 in EZO」のリハーサルシーンと本番での『茜色の夕日』が素晴らしかった。2005年の志村の声はとても伸びやかで透明感もあり力強い。
 5周年ツアー時の『桜の季節』は歌詞の一部(坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く そして追いかけていく/諦め立ち尽くす 心に決めたよ)が歌われなかった。なぜだろうか。歌詞の流れからするとこの箇所は必要がないかもしれない。かねてからそう考えていたのでこの改変には納得できたのだが、どういう意図からそうしたのかという関心を持った。

 最近このブログで書いている『同じ月』の演奏全篇が上映された。志村が「僕が歌うためだけに生まれてくれた曲」「自分で言ってしまうけど、最高だ。」と述べた曲だ。CD音源よりこのライブ映像の方がこの曲の魅力は増す。やや自分を突き放しているようなユーモアがあり、独特のゆるやかさで歌われていた。
 全体として志村の笑顔のシーンが多く含まれ、明るい激しい曲調の作品中心の構成だった。彼の足跡をたどり、2009年の映像に向き合うことが悲しくならないようにという配慮があったのだろう。

 一番心に刻まれたのは『雨のマーチ』。梅雨の季節、曇り時々小雨模様の日ということもあってか、昨日は特にこの曲が心に染み込んだ。


  ぽつりぽつりぽつりと ほろりほろりほろりと

  雨が降ったよ しとしと降ってたよ
  僕を通り過ぎて遠くにいった人
  時が経ったよ 戻れなくなっちゃったよ
  おあいこにしたり戻したり


 書き写していると、歌詞と楽曲の基調ともなる雨の風景が浮かび上がる。「時が経ったよ 戻れなくなっちゃったよ」という時間の感触が哀切に響く。「おあいこにしたり戻したり」といういくぶん無邪気でそして謎めいた表現が志村らしい。

 まだ半日しか経っていない上映會の印象を断片的に綴ってみた。『FAB BOX III』を視聴してから、気がついたり感じたりしたことをふたたび書いてみたい。

 終了後、「路地裏の僕たち」による『志村正彦展』を見ることができた。時間がなかったので駆け足だった。僕が関わった2014年『ロックの詩人志村正彦展』や2011年志村展で掲示した説明文も展示されていた。ありがたかった。
 今回おそらく初めて展示されたもの、これまで見たことのない写真のパネルもあり、とても充実した展示会だった。楽器類、服装や帽子も綺麗に並べられていた。準備や展示自体にかなりの時間がかかっただろう。僕たちファン一人ひとりにとってほんとうに貴重な機会となった。
 出口で、8月5日河口湖湖上祭「路地裏の僕たち」による花火打ち上げのための協力金を入れた。湖上祭ではどんな花火が打ち上げられるのだろか。『若者のすべて』が会場に響くのだろうか。楽しみである。
 そして久しぶりにお会いできた方々の元気な姿がうれしかった。

 最後に最も印象に残った志村正彦の言葉について記したい。
 2時間ほどの上映のラスト、映像の背後にかぶさる形で志村の言葉が場内に広がっていた。

  闘っている。

 という意味の言葉だった(と聞こえた。あるいは闘っていくだったかもしれないが。『FAB BOX III』で確認したい)

 志村正彦は何に対して闘っているのか。闘ってきたのか。闘おうとしているのか。
 音楽か、自分自身か、それとも世界か。
 ありふれた言葉をそこに入れてもしかたない。何と闘っているのか分からないこともある。分からないのだが、何かと闘っているという確信がある。そういうことかもしれない。あるいは闘っているという実感が自らの活動を支えることもある。自らの動力になることもある。

 そんなことを考えて甲府への帰路についた。