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2019年6月30日日曜日

FAB LIST I - 2004~2009 投票結果 [志村正彦LN223]

 注目の「FAB LIST I - 2004~2009」投票結果が発表された。1位から15位までの15曲が『FAB LIST 1』に収録される。特設サイトから30位までの作品を列挙する。


 1 .赤黄色の金木犀
 2. 星降る夜になったら
 3. 若者のすべて
 4. 茜色の夕日
 5. バウムクーヘン
 6. 虹
 7. 陽炎
 8. サボテンレコード
 9. 銀河 (Album ver.)
10. 花屋の娘

11. ロマネ
12. Sugar!!
13. 笑ってサヨナラ
14. 桜の季節
15. Anthem
16. TAIFU
17. ペダル
18. ダンス2000
19. 記念写真
20. 線香花火

21. シェリー
22. TEENAGER
23. エイプリル
24. 花
25. 環状七号線
26. Day Dripper
27. 打上げ花火
28. タイムマシン
29. クロニクル
30. NAGISAにて


 僕が選んだのは『花』、『セレナーデ』、『ルーティーン』の三曲。『花』は24位、『セレナーデ』、『ルーティーン』は30位までにも入らず圏外。予想はしていたが、実際はどのくらいの投票だったのだろう。せめて50位くらいまで公表してもらえれば、フジファブリック・ファンの好みが分かるのだが。

 1位『赤黄色の金木犀』、2位『星降る夜になったら』、3位『若者のすべて』の並びで意外だったのは『星降る夜になったら』。この作品は作詞:志村正彦、作曲:金澤ダイスケ・志村正彦。フジファブリックの中では明るい曲調とロマンティックな歌詞が特徴である。若い世代に支持者が多いようだがそれが反映された2位なのだろう。3位の『若者のすべて』はトップ3に入るのは確実だと予想していた。志村正彦作品の中で最も知名度が高く、人々に愛されている曲であることは間違いない。

 『赤黄色の金木犀』が1位だったことには納得できる。歌詞、楽曲、演奏ともに完成度がきわめて高い。総合的な完成度という観点ではナンバー1といえるだろう。ファンが支持しているのもうなずける。
 歌詞の世界は、金木犀の花、香り、秋の季節感と日本文学の伝統とも呼応する。「過ぎ去りしあなたに」の「し」という文語助動詞も効いている。イントロアウトロの志村が奏でるアルペジオ。次第にスピート感を増すテンポ。言葉の世界と楽曲が見事に溶け合っている。ミュージックビデオの同一ポジションを維持した実験的な撮影も秀逸だ。
 以前この歌詞について書いた拙文を引用する。


  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 「影」を「僕」の「影」だと仮定してみる。そうなると、「影」は「僕」の「分身」ともなる。「僕」は僕の「影」を追いかける。あるいは僕の「影」が「僕」を追いかける。一日も終わる頃、夕陽をあびて、「影」は遠く果てまで伸びていく。陽も落ちると、周囲に溶けこみ、「僕」は「影」が解らなくなる。一日の時の流れの中で、「僕」は「影」を通じて、自分自身の「時」を追いかけているのかもしれない。

 それでも、金木犀は香り続けている。あたりの風景を香りで染め上げている。「僕」は平静でいられなくなり、「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」。一つひとつの言葉は分かりやすいものであっても、この配列で表現されると、なかなか解読しがたい。言葉の連鎖のあり方が単純な了解を阻んでいる。なぜ、「無駄に」胸が騒ぐのか。その理由は明かされることがなく、行間に沈められている。「僕」の「胸」にある想いを描くことは不可能だが、「無駄に」という形容は痛切に響く。


 あらためて『赤黄色の金木犀』を聴いてみた。
 歌詞の行間に沈められた作者志村の想いが静かに溢れてくる。
 「僕」は僕の「影」を追いかけ、僕の「影」が「僕」を追いかける。この曲には何かに追いかけられるような焦燥感がある。夕暮れ時に「僕」は「帰り道」にいるのだが、その道は遠く感じられる。
 「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」という言葉の連鎖は、志村正彦が表現した言葉の中でも最も痛切に哀切に響いてくる。

 日本語ロックの枠を超えて日本語の歌として傑出した作品『赤黄色の金木犀』がファン投票の1位だったことを素直に喜びたい。

 『FAB LIST 1』は8月28日EMI Records / UNIVERSAL MUSICから発売される。初回生産限定盤は、TOP15曲を収録したプレイリストCDとフジファブリックEMI在籍時代のツアーやライブより厳選した貴重なライブCDの2枚となる予定だ。

2019年6月23日日曜日

鏡としての月-『同じ月』3 [志村正彦LN222]

 『同じ月』(詞・曲:志村正彦)は主に三つのブロックから構成されている。

 第一は、冒頭の「この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか Uh〜」という問いかけ。
 第二は、2,3連の「月曜日から始まって 火曜はいつも通りです/水曜はなんか気抜けして 慌てて転びそうになって」「イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです/何万回と繰り返される めくるめくストーリー」と6,7連の「木曜日にはやる事が 多すぎて手につかずなのです/金曜日にはもうすぐな 週末に期待をするのです」「家にいたって どこにいたって ホントにつきない欲望だ/映画を見て感激をしても すぐに忘れるから」から構成される「こんな日々」のブロック。

 第三は、4連「君の言葉が今も僕の胸をしめつけるのです/振り返っても仕方がないと 分かってはいるけれど」、8連「君の涙が今も僕の胸をしめつけるのです/壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです」、5連「にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh〜」、12連「僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ Uh〜」から構成されるブロック。
 三つのブロックの鍵となる表現、モチーフは、第一が「同じ月」、第二が「こんな日々」「つきない欲望」、第三が「君の言葉」、「君の涙」であり、最終的には「僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ」に収斂していく。

 今回は第一のモチーフ、「同じ月」について考えてみたい。
志村正彦・フジファブリックのインディーズ時代の作品で、「月」は数多く歌われている。ここでは『午前三時』『浮雲』『お月様のっぺらぼう』の三作に注目したい。(初期では他に『環状7号線』『打ち上げ花火』『花』で「月」が登場する)


『午前3時』

  赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた
  もやがかった街が僕を笑ってる様

  鏡に映る自分を見ていた
  自分に酔ってる様でやめた

  夜が明けるまで起きていようか
  今宵満月 ああ


『浮雲』

  登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月
  僕は浮き雲の様 揺れる草の香り

  (中略)

  独りで行くと決めたのだろう
  独りで行くと決めたのだろう


『お月様のっぺらぼう』

  眠気覚ましにと 飴一つ
  その場しのぎかな…いまひとつ
  俺、とうとう横になって ウトウトして
  俺、今夜も一人旅をする!

  あー ルナルナ お月様のっぺらぼう


 『午前3時』の「鏡に映る自分を見ていた」「僕」。『浮雲』の「独りで行くと決めたのだろう」と自らに語りかける「僕」。『お月様のっぺらぼう』の「今夜も一人旅をする!」「俺」。歌の主体である「僕」「俺」。作者の分身といえるこの一人称の主体は、「独りで行く」「一人旅をする」孤独な主体であるが、「鏡に映る自分を見ていた/自分に酔ってる様でやめた」とあるように、その孤独な「自分に酔う」ことからは距離を置いている。自分が自分に酔う「鏡」の効果から逃れている。

 歌詞の中の「月」はどのようなあり方を示しているのだろうか。
 満月 、満ちる欠ける月、「のっぺらぼう」の月。どちらかというと光に溢れた月がイメージの中心にある。太陽の光を受けてそれを反射する月。太陽という「他」が光の源であり、月はそれ「自」ら光を持たない。逆に言うと、「月」は「他」を反射する「鏡」である。そしてこの「他」と「自」の関係は象徴的に機能し、志村正彦の歌に作用している。

インディーズ時代の「月」が登場する三作を連鎖する光景を描いてみよう。
 夜、「独りで行く」主体。その視線の向こう側に「月」がある。主体は「月」を見つめる。「月」も主体を見つめる。主体の眼差しを反射する鏡のように「月」が空に浮かんでいる。志村はこのような光景を繰り返し歌った。

 『同じ月』は2009年『CHRONICLE』収録曲としてリリースされた。(作詞作曲は2008年7月)。初期からは数年の時間が流れている。「この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか」という一節には、「僕」と「君」が登場する。一人ではなく二人であることに留意したい。

 月は古来から、遠く離れた恋人や友人が同時に眺めている景物として詩歌に登場してきた。月への想いはまるで鏡のように「自」と「他」、「他」と「自」を照らし合わせる。
 その伝統の中で作者志村正彦は、「僕」と「君」が「同じ月」を眺めているのだろうかと問いかける。異なる場所にいる。それでも同一の時間を共有している。そう想えるのかどうか。その問いかけがこの歌の起点となっている。

   (この項続く)

2019年6月16日日曜日

歌の作者と歌の主体-『同じ月』2[志村正彦LN221]

 前々回の記事で、志村正彦が『東京、音楽、ロックンロール 完全版』の「インタビュー」(p202)で、2008年の6,7月頃を指して、「この頃はまだポリープ中で、人の提供曲ばっかり書いていたけど、自分のためだけに作った曲を7月30日に書いて。これは4枚目のアルバム『CHRONICLE』に入っている”同じ月”って曲です。そのへんから徐々に回復していきました。」と述べていることを紹介した。
  この頃の状況について別の記事(『bounce』 310号2009/5/25、文・宮本英夫)ではこう語っている。


『TEENAGER』というアルバムを昨年1月にリリースして、5月31日に僕の中学時代からの夢だった(故郷の)山梨県富士吉田市富士五湖文化センターでライヴをやることができて、そこで夢を叶えてしまったんです。今後どうしたらいいんだ?ということを6~7月にずっと悩んでいて、その後、8月中旬に喉のポリープの手術をしました。僕は人から〈曲を作れ〉と言われると作らないタイプなんですけど、手術に失敗したら声が出なくなるかもしれないという話を聞いて、自発的に2~3週間でアルバム収録曲のほとんどを書いたんです。明日はどうなるかわからないと思った末に、後悔したくないし人のせいにしたくないというのがあったので、全作詞作曲とアレンジを僕が考えてやりました。28歳になったという意識も強くありましたし、28歳のミュージシャンがいろいろ考えている、切迫感が出ているアルバムになったと思います。


  「全作詞作曲とアレンジを僕が考えてやりました」という『CHRONICLE』収録曲の中で『同じ月』は特別な存在であった。志村は、「志村日記2008.07.30」(『東京、音楽、ロックンロール 完全版』所収)で、7月30日に書いた曲について次のように説明している。この作品が『同じ月』である。


   2008.07.30 スランプ脱出か?

 提供曲ばっかで、最近自分のために曲作ってなかったんで。自分用に作りました。人にあげる曲も最高だったけれども、今回は僕が歌うためだけに生まれてくれた曲。
 最高だ。自分で言ってしまうけど、最高だ。曲作ったりして2,3日もすると結構その曲になんとなく冷めてきたりするんですが、今回は、無い。多分リリースすると思う。っていうかしたいんですけど。志村、作曲モチベーション上がってます。
 ここからは暴露話。僕は正直、デビュー以降4年間くらい、作曲ペースがスランプ気味だったのですが、これからスゴいですよ。スランプでも今までのあのクオリティでしょ? それが自分でスランプ脱出しそうって言ってるんだから、そういうことです。


 この「僕が歌うためだけに生まれてくれた曲」が何よりも「最高だ。自分で言ってしまうけど、最高だ。」とされていることに注目すべきだろう。自分の作品についてどちらかというと控えめに抑制気味に語ることの多い彼だが、『同じ月』については「最高だ」という確信があったことがうかがわれる。「スランプ脱出」の悦びや開放感がその背景にあるのかもしれない。
 結果として、この『同じ月』はアルバム『CHRONICLE』の基調をなす作品となった。
 
 『bounce』 310号の記事は、初期の歌詞についての興味深い発言を記している。


昔のフジファブリックは、歌詞を見られて頭が悪いと思われたくないというのがとてもあって。文学的な感じに見られたいというのがあったんですけど、今回はまったく意識せずに思ったことを完全ノンフィクションで歌ったというそれだけです。怖いとか弱いとか臆病だとか、そういう歌詞は後ろ向きかもしれないですけど、それはネガティヴではなくて誰しも持っているものだと思うんですね。誰しも持っている後ろ向きなことを惜しまずに出した、という気持ちはあります。


 「歌詞を見られて頭が悪いと思われたくない」「文学的な感じに見られたい」というのは、読書好きの文学青年でもあった志村らしい発言だ。特に1stアルバム『フジファブリック』では、四季の風景や季節の感覚を定型から離れて表現する工夫や言葉の行間その余白を効果的に作用させる技術を駆使している。
 「今回は」「完全ノンフィクション」で歌ったという対比から、「昔」の作品にはフィクションが入り込んでいるという含意が読み取れる。例えば四季盤の作品には、幾分か虚構とも捉えられる「小さな物語」的な枠組がある。

 『桜の季節』の別離、『陽炎』の少年時代、『赤黄色の金木犀』の「帰り道」、『銀河』の「逃避行」。いずれも作者の私的経験にある程度まで基づいているのだろうが、その経験の断片は複雑に組み合わされながら「小さな物語」として構築されていく。それでも物語に収束するのではなく、その枠組の中で、主体が感じる現実的で切実な感覚とそれを包み込む風景や季節の感触とがファブリックのように織り込まれる。

 作者志村と歌の主体(志村の分身ではある)の「僕」との間にはある一定の距離、分離がある。小さな物語、フィクションとしての枠組がその距離を支えている。凡庸な歌との違いがここにある。彼の歌が詩として評価されるゆえんもまたここにある。フジファブリック初期作品の深さと豊かさは、作者志村正彦とその分身との分離によって成立していると考えられる。

 その文脈からすると、『CHRONICLE』収録曲は「完全ノンフィクション」を目指して、作者と歌の主体との距離を限りなく近づけた。「完全」とあるから、志村はその距離がほとんどゼロとなるように心がけた。それは勇気ある試みだった。フジファブリックの作品の可能性を広げたと同時に、志村正彦にとってみれば少なからぬ反作用もあったのかもしれない。

(この項続く)


2019年6月9日日曜日

King Crimson - Starless

 6月9日は69「ロックの日」、ということで短い記事というか映像紹介を一つ記したい。
 このところ土日まで仕事に追われテキストを書く時間がほとんどない。息抜きにyoutubeで遊んでいたところ、King Crimson の『Starless』に遭遇した。2015年来日時の収録らしいが、詳しいことは分からない。公式映像「DGM LIVE」で視聴できるのはありがたい。

 演奏メンバーはロバート・フリップ(G・Key)、ジャッコ・ジャクスジク(Vo・G)、メル・コリンズ(Sax・Flute)、トニー・レヴィン(Ba・Chapman Stick)、ギャヴィン・ハリソン(Dr・Perc)、パット・マステロット(Dr・Perc)、ビル・リーフリン(Dr・Perc・Key)のようだ。トリプルドラムの編成はきわめて珍しい。




 この曲は、1974年9月発表のアルバム『レッド』(Red)で初めて聴いた。もう45年前のことだ。1973年3月発表の『太陽と戦慄』(Larks' Tongues in Aspic)に驚嘆した僕はこのバンドのファンになっていた。GenesisとKing Crimsonが僕にとってのプログレッシブ・ロックのすべてだった。
 1984年4月、五反田簡易保険ホール。2003年4月、長野県松本文化会館。この二回はライブ演奏も聴いた。どちらも昔の話だが、音源とライブ演奏の差異を愉しむのがクリムゾン経験でもある。

 すでにこの映像は700万回以上視聴されている。キング・クリムゾンのファンがそれだけいるのは驚きだ。繰り返し聴くことが多いのだろうがそれにしてもすごい回数である。
 70歳近いロバート・フリップは相変わらずの演奏だが、全体として穏やかな感じが漂っている。これをどう捉えるかは聴き手の自由だが、様式としても演奏としても完成された音楽がここにはある。

 作曲は発表時のメンバー、ロバート・フリップ、ジョン・ウェットン、ビル・ブルーフォード、デヴィッド・クロス。 作詞はリチャード・パーマー・ジェイムス(Richard Palmer-James)。

 歌詞を引用したい。


  Sundown dazzling day
  Gold through my eyes
  But my eyes turned within
  Only see
  Starless and bible black

  Ice blue silver sky
  Fades into grey
  To a grey hope that oh years to be
  Starless and bible black

  Old friend charity
  Cruel twisted smile
  And the smile signals emptiness
  For me
  Starless and bible black


 久しぶりに歌を聴き、歌詞を読んだ。以前より色彩感の感触に心が動かされた。リリース時の音源とは2番と3番が入れ代わっている。最近のライブではこの順だが、こちらの方が色彩の変化や時間の経過が浮かび上がる。

 外界の色彩の溢れる世界が消えていく。内界の色彩のない世界、「Starless and bible black」へと。ロックの言葉と音楽の到達点の一つには違いない。
     

2019年6月2日日曜日

フジファブリックのネトネト言わせて #112 -『同じ月』1[志村正彦LN220]

 フジファブリック 志村正彦没後10年 2009年映像作品集 特設サイト内で、ネットラジオ「フジファブリックのネトネト言わせて」の2007年~2009年に配信した114本を一挙にアーカイブ配信という知らせがあった。「ネトネト言わせて」のアーカイブ化がついに実現したことになる。

 オフィシャル・ブートレグ映像のリリースや「ネトネト言わせて」配信など、志村正彦・フジファブリックの映像や音声資料が「アーカイブ」化されていくのは、志村正彦没後10年というタイミングがあってのことだろうが、そのこととは無関係に今後も、この不世出の詩人・音楽家の足跡を示すものを公開してほしい。権利関係が複雑なのだろうが、音楽フェスティバルの映像などもいつかアーカイブ化できるといい。

 早速少し聴いてみたが、たまままクリックした「#112」は「ネトネト言わせて」の公開収録の回だった。出演者は志村正彦と金澤ダイスケの二人。『CHRONICLE』リリースを記念したもので、ネットで調べると、2009年5月30日、大阪タワーレコードNU茶屋町店での録音のようだ。本人たちのいう「グダグダ」のおしゃべりの後、『同じ月』のライブ演奏が収録されている。29分頃からそのシーンとなる。




 ネトネト音源を聴きながら言葉を追えるように、歌詞を引用したい。


 同じ月(詞・曲:志村正彦)

この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか Uh〜

月曜日から始まって 火曜はいつも通りです
水曜はなんか気抜けして 慌てて転びそうになって

イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです
何万回と繰り返される めくるめくストーリー

君の言葉が今も僕の胸をしめつけるのです
振り返っても仕方がないと 分かってはいるけれど

にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh〜

木曜日にはやる事が 多すぎて手につかずなのです
金曜日にはもうすぐな 週末に期待をするのです

家にいたって どこにいたって ホントにつきない欲望だ
映画を見て感激をしても すぐに忘れるから

君の涙が今も僕の胸をしめつけるのです
壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです

にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh〜

君の言葉が今も僕の胸をしめつけるのです
攘り返っても仕方がないと分かってはいるけれど

君の涙が今も僕の胸をしめつけるのです
壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです

僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ Uh〜


 「イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです」「にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ」。ゆるい雰囲気の言葉が独特の味わいを醸し出す。
 一、二、三。月、火、水、木、金。ルーティーンのように、数字や曜日が進んでいく「こんな日々」の「変われずにいる」「僕」。志村はその「僕」を率直に歌っていく。でも幾分か距離を置くように歌っている感じもある。歌い方そのものは、高いキーの音が不安定でやや声もかすれている。一種の愛嬌のようにも聞こえてくる。加工されていないので、志村の声と節回しが生々しい。どのように形容したらよいのか適切な言葉が見つからない。これは「志村節」としか言いようがない。

 『同じ月』はあまり注目されることがない曲だが、『東京、音楽、ロックンロール 完全版』の「インタビュー」(p202)で、志村はこう語っている。


  この頃はまだポリープ中で、人の提供曲ばっかり書いていたけど、自分のためだけに作った曲を7月30日に書いて。これは4枚目のアルバム『CHRONICLE』に入っている”同じ月”って曲です。そのへんから徐々に回復していきました。


 「この頃」というのは富士吉田ライブを終えた2008年の6,7月頃を指している。『同じ月』は、自分のためだけに作った曲であり、この曲を作ったあたりからスランプ状態から徐々に回復してきたという重要な証言である。

      (この項続く)