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2018年4月28日土曜日

セシル・テイラー(Cecil Taylor)、『アキサキラ』・白州

 セシル・テイラー(Cecil Taylor)の死をネットの記事で知った。4月5日、ニューヨーク市ブルックリンの自宅で亡くなった。享年89歳。

 ジャズは断片的にしか聴いてこなかった。ほんの時々、話題になった音源に接したり地元のジャズ・フェスティバルに出かけたりという関わり方だった。ジャズのアルバムもわずかしか持っていない。そのような関わりの中で、セシル・テイラーという固有名詞は記憶の中に留まり続けていた。今日はそのことを書いてみたい。

 1973年のことだ。僕は中学3年生だった。その頃すでに英米のロックや日本のロックやフォークを熱心に聴いていた。『ニューミュージック・マガジン』などの音楽雑誌を読んだり、FM放送を聞いてテープに録音したりという日々だった。レコードは高価なものなので、小遣いをためてほんとうにたまにしか買えなかった。今のように情報はあふれていなかったので、雑誌のレビューが購入の参考になることも多かった。

 その年の冬の季節だったろうか、セシル・テイラーというピアニストのユニットのライブ盤が発売されたことを知った。『アキサキラ(Akisakila)』という奇妙な題名だった(スワヒリ語で「沸騰」を意味するそうだ)。その年に東京の会場で録音された作品で、どの雑誌かは覚えていないが、レビューで絶賛されていた。「フリージャズ」というジャンルらしいが、田舎の中学生にとっては謎の音楽だった。なんとなく知的で芸術的なものへの関心、好奇心があった。中学生らしい背伸びしたい心もあった。ジャケットの写真にもロックとは異なる雰囲気があり、なんだか惹かれた。



 当時の甲府に「サンリン」というレコード屋さんがあった。新しくて明るい雰囲気の店だった。音楽にとても詳しいご兄弟の店員がいて、品揃えがよかったので時々立ち寄った。LPレコードを包む布製の袋がお洒落だった。あの頃の甲府の若者はそのサンリンの袋を抱えることが、音楽ファンとしてのちょっとしたステイタスでもあった。

 『アキサキラ』は2枚組のLPだったのでとても高価だった。かなり迷ったのだと思う。でも、フリージャズというものを知らなければならない、そう自分に言い聞かせて意を決してサンリンに出かけた。棚からレコードを探してレジに出すと店員のお兄さんから「中学生がセシル・テーラーねえ?」と言われたことをよく覚えている。僕が初めて買ったジャズのアルバムになった。(数年前にサンリンは惜しまれつつ閉店した)

 家に帰り早速聞いてみたのだが、セシル・テイラーとジミー・ライオンズ(asx)、アンドリュー・シリル(ds)の三人による音の洪水だった。(確かに「沸騰」のようだ)正直言って心が動かされるような音楽ではなかった。身体が動かされたということもなかった。理屈として知的に理解することももちろんできなかった。フリージャズというのはこういう世界なのだなと受けとめることしかできなかった。音楽には何らかの形や型があるのだが、そういうものを超えているのだなということだけは何となく分かった。それが「フリー」というなのだろうか。その理解もおぼろげなものだった。むしろ、何か理解を超えたものがあるのだなということだけは分かったような気がした。

 その後、セシル・テーラーの良い聴き手となることはなかった。フリージャズ、広くジャズの世界に深く入り込んでいくこともなかった。セシル・テーラーのことも忘れていった。

 時は移り、1992年の夏。山梨県の白州町でセシル・テイラーの生演奏を初めて聴くことができた。1988年から1998年まで、田中泯主催の「白州アートキャンプ」が開かれていた。僕はほぼ毎年通い、マルセ太郎やデレク・ベイリー等の素晴らしいパフォーマンスを経験することができた。今思えば、非常に貴重で特別に贅沢な時と場であった。

 舞台は巨麻神社。甲府から北西方面に車で1時間ほどの所だ。鬱蒼とした古びた境内にセシル・テーラーという組み合わせがそれらしかった。田中泯とのコラボレーション、富樫雅彦・一噌幸弘とのユニットで二日間行われた。かなりの年月が経ち、その印象をここに書くことは記憶の面でも能力の面でも不可能だ。セシル・テーラーのピアノの音がひたすら美しかったということのみ記しておきたい。混沌の中で綺麗に立ち上がっていった。後にも先にもフリージャス系のピアノの音で純粋に構築的で美しいと感じたことはこの時だけだろう。

 youtubeで映像や音源を探してみた。残念ながら白州関連やその時代のものは見つからなかった。検索していくうちに晩年のセシル・テーラーはどうだったのか気になった。2004年収録の「Master Class: Cecil Taylor - Poetry and Performance」という詩の朗読とピアノ演奏があった。七五歳の衰えることのないパフォーマンスに驚くばかりだ。




 数日前、相倉久人の『されどスウィング―相倉久人自選集』(青土社2015/7/7)に「白州の山にこだまするセシル・テーラー・サウンド」が掲載されていることを知り、取り寄せて読んでみた。細やかな感覚と鋭い論理が融合した文体で、白州の経験を「聴覚の転換=耳のフェスティバル」だったと書いている。

 相倉久人の優れた批評的エッセイによって、忘れていたいくつかのことを想い出すことができた。あの日の美しい音の断片も少し回帰してきた。

2018年4月21日土曜日

前野健太 at 桜座、『100年後』。

  二週間前になる。桜座で前野健太を聴いた。「どうして おなかが すくのかな 企画」による『前野健太 ニューアルバム「サクラ」発売直前ワンマン~早咲き桜 at 桜座』と題するライブ。僕は前野健太のアルバムは『ロマンスカー』くらいしか持っていなかったが、独特な歌詞の世界に関心はあった。桜座も久しぶりだった。昨年は一度も行けなかった。この日の甲府は、「信玄公祭り」という甲斐国の英雄、戦国武将の武田信玄のお祭りがあり、街にはいつもはない賑わいがあった。甲州軍団の出陣のパレードがあり、桜座近くの街路でその行進を見てから会場に向かった。桜の季節はもう過ぎ去っていた。(志村正彦には『武田の心』という未発見の音源があることを書き添える)

 ライブは『100年後』から始まった。『ロマンスカー』の冒頭曲。一度聴くと忘れられなくなる素晴らしい歌だ。


  100年後 君と待ち合わせ
  100年後 君と待ち合わせ
  あの角の2階にある 喫茶店で待ち合わせ
 
  100年後 君と待ち合わせ  
  君は相変わらず とてもかわいいよ
  その洋服どこで買ったの ねぇ

 
 「100年後」という遠いはるかな時間と「喫茶店」の「君」という身近な距離、空間のの感覚の組み合わせが不思議に作用していく。ジャンルの分類はつまらないものかもしれないが、あえて言うのであれば、フォークの範疇に入るだろう。前野健太は1979年生まれ。80年前後に生まれた世代には優れた歌詞の創作者が少なくないが、前野もその一員であろう。「100年後」という日常を超えた時間の設定が日常的な風景に溶け込んでいる歌詞は、日本語フォークの叙情に新しい感覚をもたらしている。

 youtubeには「100年後 みんな死んでるよね」と歌い終わるヴァージョンもある。現在の時も百年後の時も、現在の場も百年後の場も、その時間と空間のどちらに対しても、自分に対しても「君」に対しても、ある種の距離を置いて眺めているような視線が感じられる。どこか投げやりのようでそれでいて真摯でもあるような、まどろみにいるようで目覚めているようでもある眼差しとでも言うのだろうか。

 『100年後』の映像を探してみた。「DAX -Space Shower Digital Archives X」に『前野健太+ラキタ - 100年後 @ WWW』があった。前野の声が細やかで美しい。




 この日の前野健太バンドは、石橋英子、ジム・オルーク、伊賀航、POP鈴木という構成。熟達のメンバーによるグルーブの厚みに前野の言葉が乗っていくと、「フォークロック」の世界が広がっていく。とても心地よく、奥行きのあるサウンドだ。
 途中で主催者の勝俣さんをステージに呼んで、二人で『鴨川』を歌った。なごやかなひとときだった。MCも秀逸で面白い。アンコールになって、アコギを携え歌い出すと「フォーク」の世界が覆う。会場からのリクエストにも応える。前野は舞台の左右に回ったり階段を上がったりして、パフォーマーとして力強くそして繊細に歌っていた。
 歌が歌に、言葉が言葉に集中していく。前野健太のライブにすっかり魅了された。

  (2018年4月28日追記・映像添付)

2018年4月15日日曜日

『エイプリル』[志村正彦LN176]

 英和大に務めて二週間経った。この大学に進んだ卒業生ともばったり出会ったが、やはり僕がここにいることがのみこめない様子。自分自身もまだ「ここはどこわたしはだれ」状態。少しだけ経緯を説明し、再会を喜んだ。言葉はあまり交わさなかったが、互いに微笑んだ。

 授業も始まった。僕には教える学識が少ないので、学生と対話する中で、彼らが自らの課題に向き合う力を伸ばしていきたい。彼らの「思考」や「表現」の形成を支援する存在でありたい。以前書いたこともある、ジョゼフ・ジャコトとジャック・ランシエールの唱える『無知な教師』の実践でもある。(偶景web:ジャック・ランシエール『無知な教師 知性の解放について』

 これまでの日々で印象深かったのは、入学式だ。学長、理事長が聖書を引用し新入生を歓迎した。聖歌隊のコーラスの清らかさ、ハンドベルの演奏の美しさ、そしてパイプオルガンの重厚な響き。これほど音楽とともにある入学式は初めてだった。

 僕はクリスチャンではないが、キリスト教には関心を抱いてきた。西欧の哲学と神学は分かちがたく結びついている。その理解に努めてきた。簡潔に書いてみたい。日本の社会や文化にとって、キリスト教は「他なるもの」である。「他なるもの」は「他なるもの」ゆえに私たちにとって貴重な存在であり、そのことだけにおいても(それ以上にという意味合いも含めて)尊重されなければならない。(齢を重ねて僕にとっては「他なるもの」ではなくなりつつあるのだが。そのことはゆっくりと考えていきたい。)

 パイプオルガンの音が広がっていくと、『茜色の夕日』のイントロのオルガンの音色が浮かんできた。オルガンの音は私たちを深い眠りから覚醒させるように作用する。一日の時の経過でいうと、「朝」の響きだ。朝の光の波がそのまま音の波と化して私たちの心と身を揺るがすように。

  『茜色の夕日』は、題名通りの「夕日」の時から「東京の空の星」の夜にかけての時間が背景となっているのだろうが、その音楽自体は、歌詞の一節にも「晴れた心の日曜日の朝」とあるように、夕方や夜というよりも「朝」の時間を想起させる。あのオルガンの音色と旋律は、志村正彦が何かから目覚め、新しい世界へ歩み始めることを伝えるているように聞こえてくる。

 四月ということもあり、フジファブリック『エイプリル』を久しぶりに聴いた。予兆と変化を告げるような旋律に乗って、歌の主体「僕」の素直な思いが繰り広げられる。テンポは速いが、志村の声はとても繊細だ。歌詞のすべてを引用する。


  どうせこの僕なんかにと ひねくれがちなのです
  そんな事無いよなんて 誰か教えてくれないかな

  神様は親切だから 僕らを出会わせて
  神様は意地悪だから 僕らの道を別々の方へ

  振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
  それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった

  何かを始めるのには 何かを捨てなきゃな
  割り切れない事ばかりです 僕らは今を必死にもがいて

  振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
  それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった

  また春が来るよ そしたのならまた
  違う景色が もう見えてるのかな

  振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
  それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった
    ( 詞・曲 : 志村正彦 )


 歌詞を写しているうちに、「神様」という言葉に立ち止まった。今まであまり意識したことがなかった。志村は「神様」のことをどう考えていたのだろうか。この歌詞での神様は「エイプリル」、四月の神様なのかもしれないが。

 「何かを始めるのには 何かを捨てなきゃな/割り切れない事ばかりです 僕らは今を必死にもがいて」という一節は心にしみるものがあった。歌詞はやはり聴き手と共に生きていく。そうなることによって歌い手に返されていく。春になると「違う景色」が見えてくるように、生きることの歩みとともに歌の「違う景色」も見えてくる。


2018年4月6日金曜日

今年の桜の季節に

 この一週間は、退職から再就職へという日々を過ごした。

 一週間前の3月30日、退職の辞令交付式へ向かった。午後一時半過ぎに甲府駅前にある会場に着いた瞬間、ラジオから聴きなれたメロディ。『桜の季節』だ。周波数を見るとFM FUJIだった。この時期この局がよく放送していることをすぐに想いだしたが。(WEBの「FM FUJI ONAIR SONGS」という検索機能で確認すると、2018年03月30日 (金)13:45に放送されたことがわかる。最近のこういう機能は便利でありがたい)


  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?


 長い間務めてき仕事から去ろうとするまさにその時に、『桜の季節』が流れてきた。「遠くの町に行くのかい?」という問いかけが身にせまってきた。遠くの町ではないが、これまでの親しみ深い場から離れ、異なる場で働くことになっていたからだ。
 ラジオはメディアだから、音楽を「偶然」として「出来事」として経験することになる。そのような経緯で出会った音楽は忘れがたい。この日の『桜の季節』はそのような経験となった。

 4月2日、新しい職場で辞令交付式があった。山梨英和大学 (Yamanashi Eiwa College)で専任の講師として勤務させていただくことになった。甲府市北東の郊外にあり、人間文化学部人間文化学科(学士)と人間文化研究科臨床心理学専攻(修士)から成る小規模のミッション系の大学だが、法人としては130年近くの伝統を持ち、この山梨の地に根を下ろしている。1989年、母体の山梨英和女学校がカナダ・メソジスト教会によって設立された。L・M・モンゴメリ『赤毛のアン』シリーズの翻訳家・児童文学者の村岡花子(甲府市出身、甲府教会で洗礼を受けた。NHKの連続テレビ小説『花子とアン』のモデル)が英語の教師をしていたこともある。

 人間文化学科のグローバル・スタディーズ領域に所属し、主に国語教育や文学講読を担当するが、いつかの日か、「日本語ロック」の歌詞の文化論の講義ができればと考えている。言うまでもないが、その中心に志村正彦がいる。大学生が彼の言葉と音楽をどう受けとめるのか。何を触発されるのか。ロックの歌詞と例えば中原中也の近代詩がどのように関わっているのか。この講義や演習の夢が叶うかどうかは分からないが、そのための努力や研究を重ねていきたい。(四年前になるが、この大学の「山梨学」という外部講師を招く授業で、「志村正彦『若者のすべて』を読む」という講義をしたこともある)

 僕は大月市で生まれて、甲府市で育った山梨県人。就職してから、山梨県立文学館で「芥川龍之介と山梨」、県立高校で山梨に関わる作品を取り上げてきた。この「偶景web」では志村正彦・フジファブリックの詩を分析してきた。ふりかえれば、山梨出身やゆかりの作家や作品をずっと探究してきたとも言える。その延長上で、この春から新しいチャレンジをすることにした。

 一昨日、英和大のキャンパスにある桜の樹を撮った。まだ一部に花が残っているものの、葉桜となってしまった桜。過ぎ去っていくものとしての桜の風景。この一週間の桜の変化は激しい。




 今年の桜の季節は格別なものとなった。

  ならば愛をこめて
  手紙をしたためよう
             ( 志村正彦『桜の季節』)

2018年4月1日日曜日

退職

 今日は私事を報告させていただきます。

 昨日3月31日をもって、定年一年前ではあるが退職した。32年間在職し、その半分の16年間を山梨県立甲府城西高等学校で勤務した。
 校訓は「進取創造」である。自由で先進的な校風が僕にはとても合っていた。ここで勤めさせていただくことで、教師として成長することができたと思う。素直にそう書けるのは幸せなことなのだろう。
 1997年設立の総合学科高校で、八つの系列があり開設科目が多い。教師が目標や内容を設定できる学校設定もあり、国語表現系統の科目を中心に、「志村正彦の歌を語り合う」授業を実践してきた。その一端はこのブログでも紹介してきた。

 その経緯を記しておきたい。2010年の春、ある病気で入院手術し、3か月間自宅で療養した。何もすることができずただ回復を待っていたその時期に、志村正彦・フジファブリックを聴き始めた。彼の作品に魅了された。日本語ロックの最高の達成だという確信を持った。
  もともと、宮沢和史(ザ・ブーム)の作品を教材にしていたこともあり、志村正彦の歌詞をテーマにした授業を試みるようになった。授業を取材していただいたり、生徒の作品を富士吉田の志村展で展示していただいたりした。それを契機に貴重な出会いがあった。この場を借りてあらためて感謝を申し上げたい。

 校舎は甲府盆地のほぼ中央にあり、四方の山々がよく見える。北西に八ヶ岳、西に南アルプス、南に富士山。1号館最上階の六階には展望スペースもある。数日前に南側のバルコニーから富士山を撮影した。甲府からの富士山は御坂山系の背後からこのように姿を現す。この日は春霞の富士だった。



 この富士山の風景とフジファブリックとは分かちがたく結びついている。志村正彦の授業をする際に、校舎から見える富士山と何度も対話してきた。

  もう一つ、校舎近くにある満開の桜も撮った。この桜の樹を、春夏秋冬、一年の季節を通して定点観測するように眺めてきた。『桜の季節』にある「桜が枯れる頃」とはどのような風景のことなのか。想像をめぐらし、生徒とともに考えてきた。



 この校舎から見える富士山やこの桜ともお別れである。2011年度から7年間続けた甲府城西高校という場での志村正彦・フジファブリックの授業も終了となる。生徒の皆へ、ほんとうにありがとう。すばらしい経験を分かち合うことができた。

 四月からは新しい勤め先に行きます。「偶景web」はこのまま継続していきますので、よろしくお願いいたします。