ページ

2017年12月31日日曜日

時代の断裂[志村正彦LN171]

 2012年12月にこのブログを始めてから5年経ち、ページビューも19万を超えた。思いつくままに不定期で書いてきたにもかかわらず、拙文を読んでいただいた方々にはとても有難い気持ちになる。
 毎年大晦日に振り返りのようなものを載せてきた。今年はもう2017年。すでに2010年代も後半に入っている。今日はこの時代についても書いてみたい。

 12月23日のSPARTA LOCALS、Analogfishのライブは、音楽そして言葉の力のあふれるものだった。志村正彦・フジファブリックと同時期にデビューしたこの三つのバンドは、オールタナティブ系という括りを超えて、2000年代を代表する日本語ロックのバンドだろう。
 この三つのバンドのデビュー時のマネージャーが語り合っているLOFTの記事「3バンドマネージャー対談 〜明日のロックを担うのは、俺たちでしょうが!(金八風)〜」がある。発掘からデビューまでの経緯が具体的に言及されていて興味深い。

 SPARTA LOCALSは福岡で、Analogfishは長野で、短い期間ではあるがライブ活動をした後に上京しデビューした。それに対して、志村正彦・フジファブリックは高校卒業後すぐに上京して音楽活動に備えていた。この点が違いといえば違いだろう。富士吉田には活動できるライブハウスなどの場がほとんどなかった。山梨の方が東京に近い(富士吉田から東京までは車で1時間半ほどの距離)という地理的な条件もあった。志村正彦は迷わずに東京へ出ていったのだろう。三つのバンド共に2000年前後に上京し、2002年から2003年にかけてインディーズデビューを果たす。デビューアルバム・ミニアルバムの発表時期を記しておこう。

 2002年 4月  SPARTA LOCALS 『悲しい耳鳴り』
 2002年10月   フジファブリック 『アラカルト』
 2003年 6月    Analogfish 『世界は幻』

 この三つのバンドは同時期にデビューしたライバルとして互いを意識していただろう。作風も演奏も異なるが、日本語ロックの最先端を担う者たち同士として、孤高の道を歩みながら慣れ合うことなく交流していったようだ。2005年11月、合同企画「GO FOR THE SUN」イベントはその象徴である。ないものねだりだが、このライブのフル映像を見たいものだ。CSで放送されたそうだが、権利上の問題からDVD化は不可能なのだろうが。

 11月末まで仕事がとても忙しく、ブログの更新もおろそかになった。12月に入り少し余裕が出てきたので、SPARTA LOCALSとAnalogfishの初期作品から現在までのアルバムを繰り返し聴いてみた。(SPARTA LOCALSの場合、HINTO、堕落モーションFOLK2という流れで)
 彼らの音楽の中心にあるものは全く変わっていない。変わらないということを変えないで持続してきた表現者の刻印がいたるところにある。これだけでも驚くべきことなのだが、それ以上に驚嘆すべきなのは、この二つのバンドの言葉と楽曲がつねに深いところへ進み続けているということだ。変わらないままに進み続けている。変わりながら進むことは可能でも、変わらないままに原点を持続して、進化、深化していくのは極めて難しい。

 SPARTA LOCALSは2009年に解散した。Analogfishは2008年に斉藤州一郎の休養があったが幸いに2009年に復帰した。この時実質的にはバンドとして再出発したのではないかと思われる。
    前々回触れたが、2009年のSPARTA LOCALS解散時に志村正彦が『スパルタが解散したら、ロックシーンはどうなるんだ』と安部コウセイにせまった。
 2009年12月24日、志村正彦は亡くなった。「志村正彦のフジファブリック」は永遠に失われてしまった。「COUNTDOWN JAPAN 09/10」の12月28日のステージで、Analogfishの下岡晃は「ちょっと話したいんだけど」と、スパルタローカルズの解散、フジファブリックの志村の急逝という、仲間との別れへの悲しみを口にして、「俺たちは誠実に旅を続けようと思う」と『Life goes on』を演奏したそうである。(クイックレポート COUNTDOWN JAPAN 09/10 高橋美穂)
 2009年、ゼロ年代の終わり近くに、SPARTA LOCALS、Analogfish、フジファブリックは各々、解散、再始動、終焉を迎えた。

 事実の羅列になってしまうが、SPARTA LOCALSの後継、HINTO/堕落モーションFOLK2とAnalogfishの2010年代のこれまでの展開を振り返りたい。
 2010年、HINTOは活動を始め、2012年6月『She See Sea』、2014年7月『NERVOUS PARTY』、2016年9月『WC』、堕落モーションFOLK2は2012年5月『私音楽-2012春-』、2015年5月『私音楽-2015帰郷-』をリリースした。
 2011年3月の東日本大震災、福島原発事故。その現実に向かい合うようにして、Analogfishは「社会派三部作」といわれるアルバム、2011年9月『荒野 / On the Wild Side』、2013年3月『NEWCLEAR』、2014年10月『最近のぼくら』をリリース。2015年9月『Almost A Rainbow』発表。彼らのアルバムやライブについてはこのブログで何度も取り上げてきた。彼らが誠実に真摯に旅を続けてきたことは間違いない。

 SPARTA LOCALS/HINTO/堕落モーションFOLK2、Analogfish。共に、2000年代と2010年代との間に断絶、というよりも痛みを伴った断裂がある。バンド自体の活動が十年に達し、メンバーの年齢も二十歳代から三十歳代に入る。メジャーからインディーズへと拠点が変わる。各々の固有の問題もある。それと共に、2011年の震災・原発事故という社会的歴史的な断裂が決定的な影響を与えたように思われる。

 日本でも欧米でも、三十歳の壁を越えて優れた作品を作り出すロック音楽家は少ない。(質を保ち続けたとしても寡作になる)自己模倣とファンの囲い込みと業界の法則の中で、軽い石のようにころころと転がり続けるしかないという現実がある。「ロック」という音楽そのものの「壁」かもしれないなどと訳知り顔で言いたくなるが、HINTO・堕落モーションFOLK2やAnalogfishはその「壁」を壊し続けている。少なくとも「壁」に挑み続けている。

 「志村正彦のフジファブリック」が2010年代の音楽を創り上げることができたとしたら、どんなものになっていたのだろうか。音楽的な想像力が乏しい筆者には何も想い描けないのだが、2017年の終わりの日にそんなことをふと思ってしまった。
 


 

2017年12月27日水曜日

SPARTA LOCALS『ウララ』(12/23 渋谷WWW X)

  前回に続き、「SPARTA LOCALS presents『TWO BEAT』:SPARTA LOCALS / Analogfish」(渋谷WWW X)について書きたい。
 
 そもそも「SPARTA LOCALS」というバンドを知ったのは、『美代子阿佐ヶ谷気分』(監督・坪田義史)という映画を通じてだった。公開は2009年。その翌年wowowで放送された際に見た。この作品は安部コウセイ・光弘の父母、安部愼一・美代子を描いた原作の漫画を映像化したもの。70年代初頭の阿佐ヶ谷を舞台に、漫画家の愼一と恋人の美代子の日々の光と影を描いた優れた映画だった。最後の方で時間は現在に変わり、安部愼一本人が登場する。主題歌はSPARTA LOCALS『水のようだ』。タイトルバックで彼らの演奏も映し出される。

 それからしばらくして、志村正彦・フジファブリックとの関係を知り、音源や映像をたどるようになった。
 始めてSPARTA LOCALSを聴いたときに二つのギターの音の絡み方やハイトーンのボイスに、ある種の懐かしさのようなものを感じた。英米のパンク、ニューウェイブ系のバンドに似ているサウンドがあった。どのバンドか、すぐには思いつかない。ネットで記事を探すと、安部コウセイがTelevisionからの影響を語っていた。なるほど、Tom Verlaine率いるTelevisionか。確かに似ている。僕はTelevisionをリアルタイムで聴いている世代だ。70年代ニューヨークのパンク・ニューウェイブの代表、Patti Smith、Talking Headsと共に、Televisionの『Marquee Moon』(1977年)、『Adventure』(1978年)は学生時代の愛聴盤だった。LPジャケットの写真も秀逸で「それらしさ」を醸し出していた。

 SPARTA LOCALSの特徴あるギターサウンドに乗って繰り広げられる歌の言葉には、どこにも帰属できない単独者の憂いや叫びがあった。持て余したような悲しみや怒りの陰影があった。それらと矛盾するようで矛盾しない、ほんわりしたユーモアもあった。そのようにしてかなり練り上げられた歌詞がサウンドと違和感なく融合している。ニューヨークパンクに起源のあるサウンドに優れた日本語歌詞が的確に乗っている。それは驚きであり新鮮な経験でもあった。「日本語パンク」(あえてそう位置づけよう)の伝統の中でもSPARTA LOCALSは独創的な位置を占めている。 2009年の解散時に志村正彦が「スパルタが解散したら、ロックシーンはどうなるんだ」と言ったのは、その言葉通りのきわめて正当な評価だろう。

 安部はSPARTA LOCALS再結成について言及した記事で、「HINTOもあって、堕落もあったから、スパルタを俯瞰で観れるようになった」と語っている。2017年の現在、彼らはHINTO、堕落モーションFOLK2、SPARTA LOCALSという三つのバンドで活動している。このトライアングルの存在自体が現在の音楽シーンできわめて貴重だ。その姿勢は真摯であり、自由であり愉快ですらある。

 今回のライブを前にあらためて7枚のアルバムを繰り返し聴いた。最も好きなのは3rdアルバム『SUN SUN SUN』冒頭曲の『ウララ』だ。冬が終わり春うららの季節を迎える「君」と「僕」の物語。「小さい雨」「なずなの群れ」に見られる季節感は福岡県田川の出身ということもあるのだろう。「ふるさとは今日も晴れてるらしいね/友だちの顔が少しよぎったんだ」にも、地方から上京した都市生活者の想いが自然に滲み出る。ほんのりした笑いもある。そして何よりも「忘れちまった事も忘れた 忘れちまった事も忘れた」には、阿部コウセイでしか伝えられない世界がある。

 12月23日の渋谷WWW X。Analogfishのステージが終わり、セッティング時間の後にドラムス中山昭仁のかけ声でSPARTA LOCALSのライブが始まった。伊東真一のギターも安部光広のベースも、あたりまえのことだが、HINTOとは異なる。ホールの音響特性もあり、音の塊感が尋常でない。容赦なくこちらにぶつかってくる。これがスパルタの音かと感慨が走る。でも解散前のことは分からない。これはやはり「2017年のSPARTA LOCALS」の音なのだろう。

 アンコール2曲目、最後の歌は『ウララ』だった。単純にうれしかった。少しやわらかな表情で歌うコウセイ。会場からの「カモン!カモン!カモン!」のやりとり。とてもいい雰囲気だった。
 この歌には、HINTOや堕落モーションFOLK2につながるエッセンスもある。歌詞の全編を引用してこの回を閉じたい。


 ウララ (作詞:阿部コウセイ 作曲:SPARTA LOCALS)


誰かの原チャリまたがって 君は笑う (カモン!カモン!カモン!)
日光とっても やさしいぜ 僕も笑う (カモン!カモン!カモン!)
 何かどーでもいい 理屈や不安に
 ちょっと溺れていた 冬は終わったんだ

ふんだりけったりされたって 僕は唄う (カモン!カモン!カモン!)
ハッタリ元気ふりしぼって 君はおどる (カモン!カモン!カモン!)
 全部わかるふりしなくてもいいかい?
 本当はいつでも こんがらがってんだ

生きてる事とかに緊張したって しょうがねーや
退屈すぎるけど それも嫌だって思わん

  小さい雨 なずなの群れを 濡らしている (カモン!カモン!カモン!)
  青すぎる空気吸い込んで 鼻が出たよ (カモン!カモン!カモン!)

 ふるさとは今日も晴れてるらしいね
 友だちの顔が少しよぎったんだ

世界のイカサマに落ち込んだって しょうがねーや
まじめな事とかは明日話そうか、温いから

  忘れちまった事も忘れた 忘れちまった事も忘れた
  忘れちまった事も忘れた 忘れちまった事も忘れた

 君はウララ 僕もウララさ

2017年12月24日日曜日

Analogfish『There She Goes (La La La)』(12/23 渋谷WWW X)

  昨夜、渋谷WWW Xで「SPARTA LOCALS presents『TWO BEAT』出演:SPARTA LOCALS / Analogfish」を見て帰ってきた。甲府駅に着く頃には日付が変わろうとしていた。底冷えのする街を歩きながら、二つのバンドの残響が頭に回り続ける中で、12月24日を迎えた。

 SPARTA LOCALSは2009年9月に解散した。その際に志村正彦が安部コウセイに伝えた言葉が、『FAB BOOK』(角川マガジンズ 2010/06)「Special Interview for Fujifabric」に掲載されている。安部はこう述べている。


 「そういえば、スパルタローカルズが解散するっていう時に、すっごい志村に怒られたんですよね。電話がかかってきたんですよ。うわ、志村だ、あいつ絶対怒ってると思ってシカトしてたら、メールがきて。『てめえ、なんで電話にでねえんだ』って、キャラクター変わってる勢いのメールで。『スパルタが解散したら、ロックシーンはどうなるんだ』みたいな内容でした。別に、どうにもなんねえよって返しましたけど。でも、びっくりした。そんなに怒られるとは思ってなかったから。解散ライブには、フジファブリックみんなが来てくれたんですけど、すげえ睨まれた、志村から。ホント、子供みたいなやつですよね」


 志村にそこまで言わせたSPARTA LOCALSの存在。生で聴くことは永遠にないと思っていたが、昨年、「復活」した。ライブに行く機会を探していたところ、Analogfishとの組み合せで12月23日にあることを知った。クリスマスイブの前夜、渋谷は大変な混雑だろう。どうしようかかなり迷った。Analogfishは甲府の桜座でここ4年ずっと聴いてきた。彼らがライブの回数を減らしたせいか、今年、桜座での公演はなかった。年に一度は彼らの音の波動に浸りたい。SPARTA LOCALSとAnalogfishはフジファブリックの同世代バンドとして、志村が高く評価していた。2005年11月、この三つのバンドの合同企画「GO FOR THE SUN」イベントもあった。この機会を逃したら、この二バンドの組み合せを経験することは当分ないだろう。そう考え決心した。

 予想以上に渋谷は大変な賑わい。昨年のHINTOライブの時はハロウィンの最中だったがそれ以上の人出。華やぐ街を五十代後半男性が一人歩く場違い感がすごい。会場は満員。三十代後半から四十代前半の男性も少なくなかったので、少し落ち着けた。

 7時を過ぎてAnalogfishからスタート。この日はギターの浜本亮(Ryo Hamamoto)を入れての4人編成。桜座でのmooolsとの混成バンドで、浜本のギターを加えたAnalogfishを聴いたことがあるが、最初からは初めて。音に厚みがあり多彩だ。桜座では音が綺麗で垂直に立ち上がるが、WWWXでは音が重厚で水平に広がっていく。フロアで踊る若者にはこの感触の方が好まれるだろう。僕の好みは桜座だが。
 新曲もまじえて馴染みの曲が続く。佐々木健太郎は髪を後ろに束ねて別人のようだったが、力強く伸びる声は彼ならではの個性だ。下岡晃は「クソみたいな気持ちに対抗する」ために歌っているとMCで述べた。彼の歌詞はいつも時代に抗っている。この日は特に『There She Goes (La La La)』が素晴らしかった。祝祭感あふれるグルーブを斉藤州一郎のドラムが支えている。

 この曲のMVが粋だ。色彩のある街は渋谷だろうが、始まりと終わりそして時折、砂浜の白黒の映像が浮かび上がる。「砕けた夢のかけら」が舞い上がるかのように。 公式映像と歌詞の後半を引用したい。こんなラブソングはAnalogfishにしか創れないだろう。
    (この項続く)




『There She Goes (La La La)』(作詞:下岡晃 作曲:アナログフィッシュ)


  長い長すぎる夜を
  駆け抜ける方法は

  君が残していった香りを
  辿るだけでいいのさ

  Where are you going?
  わからない

  What do you believe in?
  何もない

  Where are you going?
  わからない

  What do you believe in?
  君だけさ Yeah

  La La La

  彼女が道を行けば
  砕けた夢のかけらが
  もう一度舞い上がる

  La La La

2017年12月17日日曜日

不安にゆれる心象-『蜃気楼』8[志村正彦LN170]

 久しぶりに志村正彦・フジファブリックの『蜃気楼』に戻りたい。

 連載第7回で紹介した芥川龍之介『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』という小説の中で、蜃気楼はどのように描写されているのだろうか。
 作品前半の登場人物「僕等」三人、「僕」芥川と「O君」親友小穴隆一と「大学生のK君」は、ある秋の昼、蜃気楼を見るために鵠沼海岸に出かける。


 蜃気楼の見える場所は彼等から一町ほど隔っていた。僕等はいずれも腹這いになり、陽炎の立った砂浜を川越しに透かして眺めたりした。砂浜の上には青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた。それはどうしても海の色が陽炎に映っているらしかった。が、その外には砂浜にある船の影も何も見えなかった。
「あれを蜃気楼と云うんですかね?」
 K君は顋を砂だらけにしたなり、失望したようにこう言っていた。そこへどこからか鴉が一羽、二三町隔った砂浜の上を、藍色にゆらめいたものの上をかすめ、更に又向うへ舞い下った。と同時に鴉の影はその陽炎の帯の上へちらりと逆まに映って行った。
「これでもきょうは上等の部だな。」
 僕等はO君の言葉と一しょに砂の上から立ち上った。


 腹這いになった「僕等」が見たのは、「陽炎の立った砂浜」の上に「青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた」光景だった。それは「海の色が陽炎に映っているらしかった」と推測されている。また、どこからか一羽現れた「鴉の影はその陽炎の帯の上へちらりと逆まに映って行った」光景も目撃される。「K君」は失望し、「O君」はこれでも上等だと言う。この日「僕等」が見たのは「蜃気楼」というよりも、「陽炎」の中に映る像や影のようだと「僕」は解析している。あくまで自然現象として考察する「僕」のありかたを記憶すべきだろう。

 作品後半では、夜の七時頃に「僕」と「O君」と「妻」の三人(「K君」は帰京した)が鵠沼海岸に再び出かける。第7回で引用した「鈴の音」の場面に続いて、「僕」はある夢を語る。


 僕はO君にゆうべの夢を話した。それは或文化住宅の前にトラック自動車の運転手と話をしている夢だった。僕はその夢の中にも確かにこの運転手には会ったことがあると思っていた。が、どこで会ったものかは目の醒めた後もわからなかった。
「それがふと思い出して見ると、三四年前にたった一度談話筆記に来た婦人記者なんだがね。」
「じゃ女の運転手だったの?」
「いや、勿論男なんだよ。顔だけは唯その人になっているんだ。やっぱり一度見たものは頭のどこかに残っているのかな。」
「そうだろうなあ。顔でも印象の強いやつは、………」
「けれども僕はその人の顔に興味も何もなかったんだがね。それだけに反って気味が悪いんだ。何だか意識の閾の外にもいろんなものがあるような気がして、………」
「つまりマッチへ火をつけて見ると、いろんなものが見えるようなものだな。」


 芥川はある小品で、かなり唐突な形ではあるが、「フロイト」という固有名詞へ言及したことがある。「フロイト」は精神分析の創始者、ジグムント・フロイトのことであろう。芥川がフロイトの英訳本を読んでいた可能性はあると思われるが、少なくとも、大正時代から紹介され始めたフロイト理論を知っていたことは間違いない。(日本近代文学館と山梨県立文学館の芥川蔵書コレクションにはフロイトの著作はない。ただし、二館のコレクションは蔵書のすべてではないので、実証的には判断できない。)
 この場面で「僕」が述べている「意識の閾の外」にある「いろんなもの」とは、精神分析的な枠組から捉えると、「夢」の中の「無意識」の表象であろう。実際に、晩年の芥川作品には夢や無意識のモチーフが頻繁に登場する。

 『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』では、「鈴の音」の錯覚や「意識の閾の外」にある夢の世界という捉え方の範囲でとどまっている。ある種のバランスがあり、作者芥川もそのことに自信を持っていた。「話」らしい話のない小説の具現とも考えていた。構想したのはおそらく大正15年末だろう。しかし翌年の昭和2年になると、芥川の人生に転機が訪れたこともあり、作風にも大きな変化が生じた。「錯覚」にとどまらない「幻覚」や「幻聴」をモチーフとする『歯車』や、夢と無意識の世界に深く下降していく『夢』(題名そのものが夢である未定稿小説)などを遺している。

 『歯車』の主人公「僕」は、見えてくる形や聞こえてくる音を、そこにはありえないもの、不気味なものや恐ろしいもの、「死」を連想させるものに変換してしまう。『夢』の主人公「わたし」は、作中の現実と「夢の中の出来事」が混然一体となるような不可思議な経験をする。もちろん小説表現の中の出来事であり、作者芥川自身の経験とは分けねばならない。小説とその作者は基本として分離すべきである。しかし、『歯車』や『夢』のリアリティがどこからもたらされたのかは、きわめて重要な問いでありつづける。

 志村正彦作詞の『蜃気楼』と芥川龍之介『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』の間に、直接的で具体的な関係はおそらくないであろう。(志村が「蜃気楼」という言葉を芥川経由で頭に刻んだ可能性はあるかもしれないが)それでも、「蜃気楼」という言葉が、主体の不安にゆれる心象の現れであることの類似性は興味深い。 

  (この項続く)

2017年12月10日日曜日

「すごい才能の塊でしたよ」奥田民生 [志村正彦LN169]

 昨夜12月9日の23:00-24:00、スカパー!のチャンネル「フジテレビNEXT」で「TOKYO SESSION 第七夜」という音楽番組が放送された。
 出演は、奥田民生、斉藤和義、山内総一郎の三人。Vocal, Guitar, Bass, Drumsと曲ごとにパートを変えながらセッションし、セレクトカヴァー&セルフカヴァーを演奏した。舞台は「Bar Monsieur」というライブバー。オーナーはムッシュかまやつ、旅に出ているという設定だった。店長のKenKen、バーテンダーのシシド・カフカが進行役だ。
 この回のセットリストを載せよう。


「はいからはくち」 はっぴいえんど
「スローなブギにしてくれ(I want you)」 南佳孝
「「3」はキライ!」 カリキュラマシーン
「若者のすべて」 フジファブリック
「ずっと好きだった」 斉藤和義
「イージュー★ライダー」 奥田民生
「やつらの足音のバラード」 かまやつひろし


 はっぴいえんど「はいからはくち」は、Vocal・Guitar山内、Bass斉藤、Drums奥田という編成。日本語ロックの名曲というか問題作をこの三人が演奏するのは興味深かった。山内総一郎は数曲でBassを弾いたが、その慣れない姿を含めて珍しいものだった。

 注目の「若者のすべて」は、Vocal・Guitar山内、Bass奥田、Drums斉藤で演奏された。奥田民生はバックコーラスも担当し、「若者のすべて」カバーの歴史の中でも特筆すべき映像となった。その一部が「第七夜SPOT」として公式webにある。




 演奏前に、奥田民生が志村正彦について語った言葉を書き写したい。


いやーやっぱりなんか、とにかくその、個性っていうんですかまあ代わりのいない感じというか。強烈に持っていましたから。曲にしても、声にしても。すごい才能の塊でしたよ。うん


 志村正彦が亡くなった後、奥田が志村について述べた言葉はほとんどないのではないだろうか。特に放送メディアでは。その意味で非常に貴重なものとなった。発言時、奥田が遣る瀬無いような表情をしていたことも記しておきたい。12/16(土) 18:40~19:40に再放送予定だから、視聴可能な方はご覧になることをすすめたい。

 特に、奥田が「声」に言及していることが個人的にはとても納得した。志村の「声」はまさしく代わりのない特別なものだから。そして何よりも、「すごい才能の塊でしたよ」という言葉が、奥田民生の志村正彦に対する想いのすべてを語っている。


2017年11月26日日曜日

矢野顕子『Bye Bye』 [志村正彦LN168]

 一昨日、11月24日の夜、矢野顕子がNHK BSプレミアムの『The Covers』で志村正彦作詞作曲の『Bye Bye』を歌った。この曲はもともと志村正彦がPUFFYに提供し(アルバム『Bring it!』2009/6/17)、フジファブリックがセルフカバーしたものだ(アルバム『MUSIC』2010/7/28)。矢野は『Soft Landing』という 7年ぶりのピアノ弾き語りアルバム(11/29発売予定)の1曲目に『Bye Bye』を収録したようだ。

 矢野顕子という存在は、スペシャルゲストの糸井重里、そしてあのYMOと共に、70年代後半から80年代にかけての若者文化や音楽の象徴の一人だった。僕らも同じ時代を呼吸してきた世代だ。だから事前にこの情報を知ったときに、あの矢野顕子が志村正彦をどうカバーするのか、嬉しいことではあるのだがどんな歌になるだろうという想いもまたよぎっていた。

 『MUSIC』は志村正彦の没後に、メンバー・スタッフが残された音源を基に完成させた作品である。その過程の悲しさとつらさを思うと何も言えないのだが、それでもあくまで参考作品であるとは思う。ただし、この『Bye Bye』は詞曲共に作品としては生前の完成作である。『MUSIC』の中でも位置づけが異なるだろう。それでも、この曲も他の曲も『MUSIC』を聴き通すのはある苦しさがある。他のアルバムとは異なる緊張感のようなものがある。

 番組に戻ろう。『Bye Bye』は最後に歌われた。見ることのできなかった方のために、画面やナレーション、司会のリリー・フランキーと矢野顕子の会話を書きだしてみよう。

《画面》 
 *テロップ                      Cover Song#2
              フジファブリック「Bye Bye」(2010)
                                          詞・曲:志村正彦
 *背景 『Music』のCDジャケット写真
 *音楽 「それじゃバイバイ またバイバイ/繰り返しても帰れない 離したくても離せない手だ/君が居なくても こちらは元気でいられるよ/言い聞かせていても」まで、志村正彦の歌声が入る。
 *ナレーション 今夜最後の曲はフジファブリックの『Bye Bye』。作詞作曲はメンバーの志村正彦。2010年発表のアルバム『MUSIC』に収録。せつない恋心を描いた一曲です。

(リリー)矢野さんがこの『Bye Bye』を聴いたときに、そのどういうところがこの曲の魅力?
(矢野)あの…やっぱりやっぱり詞かなあ。詞から入っていくので。で、その、メロディもキャッチーだし…あ、いいなと思って。で、次にすることは歌詞カードを見て。そして、自分だったらこれはこういう考え方はしないかなとか…そういう自分の口からこういう言葉は絶対出さないなあみたいなことが入っていたらもうその曲はサヨナラっていうか…でも『Bye Bye』はいける…と思ったので。


 ナレーションではPUFFYに対する言及が一切なかったが、本当は一言入れるべきだろう。音源としてはオリジナルリリースなのだから。
 矢野の発言が興味深い。やはり『Bye Bye』の魅力が「詞」にあると述べている。キャッチーなメロディにも惹かれようだ。「でも『Bye Bye』はいける」の「いける」に、カバーの才人矢野らしい確信のニュアンスが込められていた。

 フジファブリック『Bye Bye』音源の志村の歌は完成段階のものではないと思われる。ラフな感じがして、そのことが逆に、日常の中の想いがそのまま漂ってくるような感触がある。歌詞にある「もう離してしまった」者の透明な寂しさや悲しさが伝わってくる。

 矢野の方は、志村の透明な想いに矢野らしい感情と感覚の色合いを加え、より凝縮された想いを聴き手に届けようとしていた。カバー曲というよりも矢野自身の『Bye Bye』に昇華されて、非常に力のある、すばらしい歌とピアノ演奏だった。そして、矢野のこの曲への想いと共にこの曲の作者への想いも重ね合わされていたように感じた。これは勝手な僕の想いにすぎないが。
 言葉で綴るとそうなるのだが、それよりもここに記すことはただ一つのことだ。涙が静かに静かに落ちてきた。

2017年10月29日日曜日

芥川龍之介『蜃気楼』-『蜃気楼』7[志村正彦LN167]

 『スクラップ・ヘブン』パンフレット(オフィス・シロウズ、2005/10/8)に、「DIALOGUE  李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談が掲載されている。志村正彦は、「蜃気楼」というタイトルの由来は?、という問いに対してこう述べている。   

 絶望だけで終わりたくない、かといって希望が満ちあふれた感じでもないなと思って、その迷っている感じですかね。実際に蜃気楼というものを見たことはないんですけど(笑)、その揺れている感じが合うかなと。

 志村は、「絶望」と「希望」という相反するものが揺れている「感じ」を重んじたようだ。「絶望」と「希望」のあわいにあるもの、「絶望」が「希望」にあるいは「希望」が「絶望」に反転していくような世界、そのようなイメージを「蜃気楼」に託そうとした。「絶望」と「希望」のあわいに「実像」と「虚像」が入り乱れるような光景を心に描いた。それが「蜃気楼」というイメージにつながったのだろうか、それでもなぜこの言葉を使ったのだろうか。

 文学作品の中で「蜃気楼」という言葉で思い浮かぶのは、芥川龍之介の短編『蜃気楼』(正確には『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』)だろう。この作品は、1927年3月、芥川の死の半年ほど前に発表された。晩年を代表する小品で、評価が高い。
 志村はかなりの読書家だったことで知られている。彼がこの小説を読んだ可能性は大いにあると思われる。仮に読んでいなかったとしても、「蜃気楼」という作品の存在、その題名は知っていたはずだ。彼の記憶のどこかにこの言葉があっただろう。

 芥川龍之介の『蜃気楼』は次のように始まる。

 或秋の午頃、僕は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに蜃気楼を見に出かけて行った。鵠沼の海岸に蜃気楼の見えることは誰でももう知っているであろう。現に僕の家の女中などは逆まに舟の映ったのを見、「この間の新聞に出ていた写真とそっくりですよ。」などと感心していた。
 僕等は東家の横を曲り、次手にO君も誘うことにした。不相変赤シャツを着たO君は午飯の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。僕は秦皮樹のステッキを挙げ、O君にちょっと合図をした。
「そっちから上って下さい。――やあ、君も来ていたのか?」
 O君は僕がK君と一しょに遊びに来たものと思ったらしかった。
「僕等は蜃気楼を見に出て来たんだよ。君も一しょに行かないか?」
「蜃気楼か? ――」
 O君は急に笑い出した。
「どうもこの頃は蜃気楼ばやりだな。」

 「僕」は作者の芥川自身、「大学生のK君」が誰かは分からないが、「O君」は芥川の親友小穴隆一を指すものと思われる。虚構作品ではあるが、現実の出来事を素材にしていることは間違いない。「女中」の発言にある「この間の新聞」も実際に存在していたことを調査した研究もある。当時、舞台の鵠沼海岸に多くの見物客が訪れたようである。

 この後、この三人は海岸の方に歩いていく。特に事件が起きるわけでもなく、歩行中の会話や心象風景が次々と綴られていく。芥川が晩年唱えた、「話」らしい話のない小説の一種とも言われている。物語らしい物語がないとしても、何らかの表現のモチーフがあるだろう。それは何か。
 不気味なものに遭遇する。そのように「錯覚」する。作者芥川の分身である「僕」の不安が、中心的なモチーフとなっていると言えるかもしれない。「錯覚」という言葉が何度か繰り返される。

「好いよ。………おや、鈴の音がするね。」
 僕はちょっと耳を澄ました。それはこの頃の僕に多い錯覚かと思った為だった。が、実際鈴の音はどこかにしているのに違いなかった。僕はもう一度O君にも聞えるかどうか尋ねようとした。すると二三歩遅れていた妻は笑い声に僕等へ話しかけた。
「あたしの木履の鈴が鳴るでしょう。――」
 しかし妻は振り返らずとも、草履をはいているのに違いなかった。
「あたしは今夜は子供になって木履をはいて歩いているんです。」
「奥さんの袂の中で鳴っているんだから、――ああ、Yちゃんのおもちゃだよ。鈴のついたセルロイドのおもちゃだよ。」
 O君もこう言って笑い出した。そのうちに妻は僕等に追いつき、三人一列になって歩いて行った。僕等は妻の常談を機会に前よりも元気に話し出した。

  引用文の「妻」は芥川夫人の「芥川文(ふみ)」であろう。この場面では芥川、妻の文、小穴の三人が海辺を歩いている。「僕」は「鈴の音」が聞えるような気がする。「この頃の僕に多い錯覚」かと思うが「実際」にどこかで音がしているようにも思える。錯覚だろうか現実だろうか、そのように心が揺れること自体が「僕」は気がかりだ。その「僕」の不安を敏感に察した「妻」は「笑い声」で先を制すように「木履」を、「O君」も「鈴のついたセルロイドのおもちゃ」を原因として挙げる。「妻」も「O君」も笑いによって「僕」の不安を鎮めようとしている。その二人の想いが少しは通じたのか、「僕等」は「常談」として受けとめ、「前よりも元気に」話しだす。

 この場面はおそらく、芥川、妻の文、小穴隆一との間で現実にあった出来事であろう。妻の芥川に対する気遣い、小穴の友情が伝わってくる。暗い心象風景を描いたと言われる『蜃気楼』だが、この二人の言葉や心情がほのかな光を灯しているようにも読みとれる。

  (この項続く)

2017年10月22日日曜日

「この素晴らしき世界に僕は踊らされている」-『蜃気楼』6[志村正彦LN166] 

 一月ぶりに志村正彦・フジファブリックの『蜃気楼』に戻りたい。
 『スクラップ・ヘブン』のエンディング・バージョン(映画の時間の「1:53:22」から「1:56:32」まで3分10秒ほど流れる)の歌詞をあらためて引用する。オリジナル音源の全8連から第2,3,4,5連を削除した残りの第1,6,7,8連で構成されている。


1  三叉路でウララ 右往左往
   果てなく続く摩天楼

6  この素晴らしき世界に僕は踊らされている
   消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる

7  おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

8  蜃気楼… 蜃気楼…


 オリジナル音源の第2,3,4,5連は、「月を眺めている」「降り注ぐ雨」「新たな息吹上げるもの」という自然の風景や景物を描いた上で、「この素晴らしき世界」の「おぼろげに見える彼方」に「鮮やかな花」を出現させて、作者志村正彦が映画から感じとった「希望」を象徴的を表現しているが、映画版ではそのような系列が削除されてしまった。 その代わりに、第6連にある「世界」というモチーフが前景に現れている。このモチーフは、『スクラップ・ヘブン』の物語の中心を成す「世界を一瞬で消す」から発想されたものだろう。「世界」の消滅への欲望をめぐって、シンゴ、テツ、サキの三人が絡まり合う。特にラストシーンのシンゴにとって、「世界」は「消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる」という実感を伴って迫ってくるものだったろう。

 ただし、『プラスアクト』2005年vol.06(株式会社ワニブックス)で、志村が「霞がかかった何もない所で、映画の主人公なのか僕なのかわからないですけれどウロウロしてる時に、色んな人が来たり、色んな風景が通り過ぎて”どうしよう”という感じ」と述べているように、この「世界」に対する捉え方は作者の志村自身の経験も反映されているのではないだろうか。
 志村正彦の歌詞の中で「世界」が登場する作品を挙げてみる。


  どこかに行くなら カメラを持って まだ見ぬ世界の片隅へ飛び込め!
    『Sunny Morning』

  Oh 世界の景色はバラ色 この真っ赤な花束あげよう
    『唇のソレ』

  小さな船でも大いに結構! めくるめく世界で必死になって踊ろう
     『地平線を越えて』

  遠く彼方へ 鳴らしてみたい 響け!世界が揺れる! 
     『虹』

  世界の約束を知って それなりになって また戻って
    『若者のすべて』

  世界は僕を待ってる 「WE WILL ROCK YOU」もきっとね 歌える
    『ロマネ』

  これから待ってる世界 僕の胸は踊らされる
    『夜明けのBEAT』

  煌めく世界は僕らを 待っているから行くんだ  
    『Hello』

  羽ばたいて見える世界を 思い描いているよ 幾重にも 幾重にも
    『蒼い鳥』


 いくつかの重なり合うモチーフがあるが、『蜃気楼』の「この素晴らしき世界に僕は踊らされている」と関連が強いのは、『地平線を越えて』の「めくるめく世界で必死になって踊ろう」であろう。「蜃気楼」と「地平線」という舞台の類似性もある。世界で踊る、世界に踊らされているという「踊る」という身体の運動は、志村正彦の「世界」に対するイメージの結び方を表している。「踊る」は自動詞だが、「踊らされる」は「踊らす」という他動詞の受動形である。何ものかに操られてその思いどおりにさせられる、という意味がある。歌詞を文字通りに受け止めれば、その何ものかは「この素晴らしき世界」になる。幾分かアイロニカルなニュアンスで「素晴らしき」という形容がされているのか、そのままの素直な意味合いなのかは分からない。「世界」に対する視線が肯定的なのか否定的なのかも判然としない。だが、いずれにせよ、「消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる」の「踊り」には、「世界」の中で存在するしかない私たちの動き、そのあり方が象徴されている。

 (この項続く)


2017年10月7日土曜日

一人ひとりに伝える-宮沢和史氏の講演会2

 宮沢和史氏の講演会について追記したいことがある。

 講演終了後、生徒からの声を募った。
 沖縄でなく山梨のことを歌ったものがあるかという質問があった。宮沢さんはいくつもあるとした上で特に『星のラブレター』『中央線』の二曲の名を挙げた。軽音楽同好会の部長は、私も音楽を作るのですけど音楽を人に伝えるためにどのようにしていますかと尋ねた。宮沢さんは、観客が数千人の時も五十人位の時もあるが、どんな時でも一人ひとりに向けて歌を伝えていくように心がけていると語った。
 聴き手の一人ひとりに伝える。あの日の体育館には九百人ほどの生徒、保護者、教師がいたのだが、あの『島唄』はまさしくその一人ひとりに届けられた。そのような感触が確かにあった。

 最後に生徒会代表の生徒が御礼のあいさつをした。
 生徒は静かに話し出した。私には沖縄の血が流れている。祖父は沖縄で生まれて小さい頃に沖縄戦を経験し、本土に移住してきた。祖父からは沖縄の話をたくさん聞いてきた。私が今ここで生きている。その命のことを宮澤さんの講演からあらためて考えた。そのような話だった。
 この事実は講演会を企画した私たちも全く知らなかった。偶然だった。
 沖縄にルーツがある生徒と『島唄』の歌い手。かけがえのない講演会となった。

2017年9月30日土曜日

宮沢和史氏の講演会

 昨日、宮沢和史氏の講演会が勤め先の高校で開催された。(僕は主催者側の担当として企画と運営に携わった。教師は教科以外に様々な係の仕事を担っている。僕は「キャリア教育」という係に所属しているのだが、専門家の講演、大学との連携講座、事業所との連携事業やインターンシップなどが主な仕事だ。総合学科なのでその数や種類も多い。)
 今回は、宮沢さんの高校時代の同級生が二人この学校で教師をしていたり、宮沢さんが推進委員の代表となっている「未来の荒川をつくる会」(この荒川の近くに校舎がある。宮沢さんの実家も近くにあり、釣り好きの彼の歌の中にはこの荒川上流が舞台となっているものがある)の清掃活動に生徒が参加したりしている縁があったので、宮沢さんにはこの依頼をこころよく引き受けていただいた。

 題名は「山梨から沖縄、そして世界へ」。
 全校生徒と教職員そして聴講希望の保護者合わせて900人が体育館に集まった。雨上がりの暑い日で蒸し暑かった。映像投影のために黒いカーテンが閉められていた。九月の終わりなのに晩夏の季節のようだった。

 沖縄戦の話から始まった。生徒が想像しやすいように、甲府盆地を舞台にした喩えが使われ丁寧に説明されていく。沖縄戦の現実。沖縄でまだほんとうの意味では戦争が終わっていないこと。彼の落ち着いた低い声が場内に響いた。

 話の焦点は次第にザ・ブーム『島唄』にあてられていく。CD音源がかけられ、当時の写真がスクリーンに投影され、歌詞の「ダブルミーニング」が本人によって解き明かされていく。こういう機会はほとんどない。この歌を作った理由、この歌が沖縄の人々に反発されながらも次第に受け入れられていった経緯。歌詞が「二重構造」を持つとともに、音階の点でも沖縄音階と西洋音階の「二重構造」を持つこと。彼自身によってこの歌の歴史が語られ、彼自身の言葉で分析されていった。歌詞と音階の「二重構造」という表現が印象的だった。

 あくまで講演会であり音楽会ではないので、こちら側から歌を求めることはしなかったのだが、講演の最後に宮沢さんは三線を取り出し壇上から生徒のいるアリーナに降りていった。でもマイクスタンドは用意していない。PAも体育館の設備しかない。どうすればよいのだろうと一瞬困惑したのだが、彼はマイクを使わずに三線を抱えて弾きながら、そのまま歌い出したのだ。驚きと感激。こういう展開は予想していなかった。

 宮沢さんの声は中低域が厚く、独特の味わいがある。彼の声が体育館の大きな空間に広がっていく。確かな声量に圧倒される。


  島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ

  島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を 


 歌い方や身体のリズムの取り方そして眼差しも、どこか遠い彼方に「声」を届けるように集中している。息は命であり、息がそのまま声となり言葉となっていく。講演も良かったのだが、やはり彼は歌い手だ。歌が彼の伝えようとしたことのすべてを伝えていた。ザ・ブームのライブで『島唄』は何度も聴いたことがあるが、昨日はこの歌の「真実」を経験したような気持ちになった。

 講演の前後に1時間半ほど、宮沢さんを囲んで色々な話を聞くことができた。久しぶりの同級生との再会ということで高校時代の思い出話もたくさんあった。僕はもちろん初対面だったので聞き役に回っていたのだが、少しだけ質問したいことがあった。その返答をここに書くのは控えるが、彼の考えをわずかではあるが知ることができた。この場を借りてあらためて感謝を申し上げたい。

 昨日、宮沢和史がひとりで自分の声だけで900人の聴衆のひとりひとりに届けようとした、そして確実に届いた『島唄』は、歌うという行為の根源的な力を表していた。そのことを繰り返し強調しておきたい。                               

2017年9月17日日曜日

「鮮やかな花を咲かせよう」-『蜃気楼』5[志村正彦LN165] 

 フジファブリック『蜃気楼』の次の第4連に、「鮮やかな花」がなぜ出現したのだろうか。


  おぼろげに見える彼方まで
  鮮やかな花を咲かせよう


 前回述べたように、映画に内在するものというよりも映画から触発された作者志村正彦のモチーフから来たものだと考えられる。この「鮮やかな花」に込められた思いとはどのようなものだろうか。
 
 志村正彦は「花」というモチーフを繰り返し歌ってきた。『蜃気楼』以外で「花」という言葉が登場する作品を幾つか引用してみる。「桜」や「金木犀」のような具体的な花の名や「花束」というような語彙のある歌詞は除くことにする。


  そのうち消えてしまった そのあの娘は
  野に咲く花の様
    『花屋の娘』

  どうしたものか 部屋の窓ごしに
  つぼみ開こうか迷う花 見ていた

  花のように儚くて色褪せてゆく
  君を初めて見た日のことも
    『花』

  だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
  まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?
    『ペダル』

  帰り道に見つけた 路地裏で咲いていた
  花の名前はなんていうんだろうな
    『ないものねだり』


 「野に咲く花の様」「花のように儚くて色褪せてゆく」という比喩の対象として使われたり、部屋の窓ごしに見る花、路面の脇や路地裏に咲く花など、見つめるあるいは見かける対象として表現されたりしている。歌の主体そして作者志村正彦の「花」に対する眼差しには、思いがけないもの、かけがえのないものと遭遇したような感触がある。

 それに対して、『蜃気楼』の「鮮やかな花」は今ここで見ているものではなく、これから見ようとしている花である。「おぼろげに見える彼方まで」「咲かせよう」とする「鮮やかな花」はあくまで意志と想像によって描こうとしている花である。他の花の歌にはない特徴である。志村はどうしてそのような想像の花を咲かせようとしたのだろうか。

 前回紹介した『プラスアクト』2005年vol.06(ワニブックス)の志村のコメントから参考となる個所を再度引用してみる。


(映画のテーマ曲を)やりたいと思えたのは、実際に映画を観てからですね。希望もあるんだけど、でも迷って、思いもよらない方向に物事が転がっていく、そのもがいて進んでいく感じがバンドの活動や日々の生活していく上で自分が感じていることと、通じるものがあるなと思ったんです。

その時浮かんでいたのは、霞がかかった何もない所で、映画の主人公なのか僕なのかわからないですけれどウロウロしてる時に、色んな人が来たり、色んな風景が通り過ぎて”どうしよう”という感じ。『スクラップ・ヘブン』を観終えた時、”ちょっとどうしよう…”って感覚が自分の中にあって、でも、そう思う中にも、おぼろげだけど希望が見えている。希望とは言っても、具体的な何かじゃないから生々しくてリアルだなぁと思ってたんですよね。


 この二つに分けた引用個所のどちらも「希望」という言葉がキーワードになっている。『スクラップ・ヘブン』の物語の結末、シンゴが登場するラストシーンは、一般的には「希望」を抱けるようなものではない。しかし、志村は「おぼろげだけど希望が見えている」と受けとめた。
 
 志村が感じた「希望」について、筆者は完全に同意できるわけではない。しかし確かに、映画の主人公たちが追い求めていた「世界を一瞬で消す」欲望は成就しなかった。欲望はあっけなく横取りされたかのように消え去った。劇的な何ものも起こらなかった。破局は訪れなかった。主人公の三人はみな生き残った。「絶望」とは明らかに異なる。だから、この結末にある種の希望を感じとることは可能だ。監督の意図もおそらくこの映画を観る者が自由に考えることにある。

 志村は「おぼろげだけど希望が見えている」という自身の感性と解釈に忠実にエンディングテーマを作ろうとした。彼は「希望とは言っても、具体的な何かじゃないから生々しくてリアルだなぁと思ってたんですよね」と補うことも忘れていない。
 「希望」は具体的にこういうものだと言葉で説明することはできない。『スクラップ・ヘブン』にふさわしい「生々しくてリアル」なものとして心に浮かぶものだ。そのように考えた志村は、「月を眺めている」「降り注ぐ雨」「新たな息吹上げるもの」という自然の風景や景物を展開した上で、「この素晴らしき世界」の「おぼろげに見える彼方」に「希望」を象徴的に描こうとして「鮮やかな花」を出現させようとしたのではないだろうか。

 この「鮮やかな花」は、映画の主人公シンゴやテツ、サキにとっての希望であると同時に、それ以上に、作者志村正彦にとっての希望、おぼろげなものではあるが希望と名付けられる何かの「息吹」を上げる「花」であろう。

  (この項続く)

2017年9月10日日曜日

彼方の花-『蜃気楼』4[志村正彦LN164]

 前回、フジファブリック『蜃気楼』CD版の第2連から4連までの歌詞は、志村正彦自身のモチーフから創作されたという考えを記した。歌詞の言葉から考察したものだが、作者自身がこの点について発言したものがないかと資料を探してみた。入手できたのは次の四点である。

・『スクラップ・ヘブン』パンフレット(オフィス・シロウズ、2005/10/8)
・『スクラップ・ヘブン』スペシャルフォトブック(ワニブックス、2005/9/14)
・「シナリオ」2005年 11月号(シナリオ作家協会)
・『プラスアクト』2005年vol.06(ワニブックス)

 『スクラップ・ヘブン』パンフレットには李相日監督と志村正彦の対談、裏表紙の裏には『蜃気楼』歌詞が掲載されている。「シナリオ」2005年 11月号には『スクラップ・ヘブン』シナリオの全文が収録されている。『プラスアクト』2005年vol.06(株式会社ワニブックス)という映画雑誌には志村のコメントが載せられている。『スクラップ・ヘブン』スペシャルフォトブックには『蜃気楼』やフジファブリック関連の記事はない。

 この中では特に『プラスアクト』に非常に参考になる記事があった(文:鷲頭紀子)。志村はこの曲の成立過程について次のような貴重な証言を寄せている。少し長くなるが全文を引用したい。


最初、映画のエンディングテーマの話が来てるという話を聞いて、映像に音楽を付けてみたい願望は元々あったものの、その段階では決められなくて。やりたいと思えたのは、実際に映画を観てからですね。希望もあるんだけど、でも迷って、思いもよらない方向に物事が転がっていく、そのもがいて進んでいく感じがバンドの活動や日々の生活していく上で自分が感じていることと、通じるものがあるなと思ったんです。実際の作業は凄い難しかったです。劇中に流れている音楽とのバランスや、李監督の要望も考えつつ、でもフジファブリックとしてもいい曲にしたいというのがあったので。バンドメンバーと映画を観て、どういう曲が合いそうかセッションを繰り返して、それを絞り込む時が一番悩みました。いつもは曲が先行のことが多いんですが、『蜃気楼』は曲と歌詞がほぼ同時進行でした。その時浮かんでいたのは、霞がかかった何もない所で、映画の主人公なのか僕なのかわからないですけれどウロウロしてる時に、色んな人が来たり、色んな風景が通り過ぎて”どうしよう”という感じ。『スクラップ・ヘブン』を観終えた時、”ちょっとどうしよう…”って感覚が自分の中にあって、でも、そう思う中にも、おぼろげだけど希望が見えている。希望とは言っても、具体的な何かじゃないから生々しくてリアルだなぁと思ってたんですよね。だから映画を観ていない人でも『スクラップ・ヘブン』を観た後の、そういう感覚を想像出来るような曲に『蜃気楼』はしたいと思っていました。李監督にはメールで感想を貰いました。最初に「”映画を観終わった”という感じが欲しい」という要望を頂いてたんですが、「それが出来て良かったです」というような内容でしたね。今回初めてこういう、映画の音楽をやってみて、お互いの感覚がぶつかり合ってる感じが楽しかったです。映像と音楽と両方で作り上げてるというか、両方を一緒にやれることの凄さを発見しました。
  (フジファブリック 志村正彦)

           
 いくつか重要なことが語られている。
 映画のエンディングテーマとして監督の要望に応えると共に「フジファブリックとしてもいい曲にしたい」という意欲や映画を観ていない人でも『スクラップ・ヘブン』を観た後の感覚を想像出来るような曲にしたいという想いから、映画のテーマ曲であると同時に自立した音楽作品を試みた志村の意気込みが感じられる。結果として、この二つを狙ったことが『蜃気楼』の質を高めた。

 さらに歌詞の内容に関わる重要な証言がある。「霞がかかった何もない所で、映画の主人公なのか僕なのかわからないですけれどウロウロしてる時に、色んな人が来たり、色んな風景が通り過ぎて”どうしよう”という感じ。」という箇所だ。

 『蜃気楼』は、歌詞中の言葉としては「僕」や「私」という一人称代名詞は登場しないが、潜在的な一人称の主体からの視点で歌われている。通常の映画テーマ曲であれば、歌の主体は映画の主人公として設定されるだろうが、『蜃気楼』の場合はやや異なる。歌の主体は映画の主人公であると共に、音源の作者である志村の分身のような存在であるようなのだ。

  志村は、曲と歌詞がほぼ同時進行の制作過程で浮かんでいたのは、「映画の主人公なのか僕なのかわからない」主体が遭遇する人や風景だったと述べている。彼はこの映画の主人公「シンゴ(テツやサキ)」とかなりの程度同一化してこの映画を鑑賞したようだ。その経験が『蜃気楼』の歌詞にも影響を与えている。その痕跡が、第2連から4連までの歌詞に現れているのではないだろうか。

 もう一度、第2連から4連までに第5連も加えて引用しよう。CD版にしかない部分、映画版では省略されている部分である。

 
2  喉はカラカラ ほんとは
   月を眺めていると

3  この素晴らしき世界に降り注ぐ雨が止み
   新たな息吹上げるものたちが顔を出している

4  おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

5  蜃気楼… 蜃気楼…


 『プラスアクト』収録のコメントを一つの根拠にして考察すると、この部分の主体はやはり作者志村正彦の分身のように思われる。「月」「雨」という自然の風景。そして何よりも「花」の登場。「蜃気楼」の出現。映画自体にはこの部分と関連する具体的なシーンはない。どこかで無意識に触発された可能性はあるが、作者の志村が想像した世界であり、伝えようとしたモチーフではないだろうか。

 歌の主体は、「この素晴らしき世界」の彼方に「鮮やかな花を咲かせよう」という願いとも祈りともとれる言葉を紡ぎ出す。蜃気楼が、光の異常な屈折のために空中や地平線近くに遠方の風物の像が見えたり、像の位置が倒立したり実在しない像が現れたりする現象だとするなら、歌の主体が世界の彼方に咲かせようとする「鮮やかな花」とはまさしく蜃気楼のような像かもしれない。
 この「鮮やかな花」が「蜃気楼」のように作者志村正彦の心のスクリーンに出現したのであろう。

  (この項続く)

2017年9月3日日曜日

CD版と映画版の差異-『蜃気楼』3[志村正彦LN163]

 中断していたフジファブリック『蜃気楼』について再開したい。

 第2回で書いたように、フジファブリック『蜃気楼』のCD収録のオリジナル音源(6thシングル『茜色の夕日』、『シングルB面集 2004-2009』収録)と映画のエンディングで使用されたバージョン(映画のタイムでいうと、「1:53:22」から「1:56:32」まで流れる)には違いがある。(以下、CD版と映画版と略記する)
 CD版の時間は5分55秒、映画版は3分10秒程度。この二つの差異には単純に時間を短くしたとは考えられない点がある。歌詞については次のような違いがある。八つある連を数字で示し、CD版のみにある部分(映画版にはない部分)を赤字で示す。


1  三叉路でウララ 右往左往
   果てなく続く摩天楼

2  喉はカラカラ ほんとは
   月を眺めていると

3  この素晴らしき世界に降り注ぐ雨が止み
   新たな息吹上げるものたちが顔を出している

4  おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

5  蜃気楼… 蜃気楼…

6  この素晴らしき世界に僕は踊らされている
   消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる

7  おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

8  蜃気楼… 蜃気楼…


 第2連から5連までの赤い字の部分、映画版では省略された箇所に注目してみる。

 第2連は「喉はカラカラ ほんとは」という喉の渇きの叙述から始まり、「月を眺めていると」という「月」への視線に転換していく。「ほんとは」とあるが、何に対して「ぼんとは」と切り返しているのか分からない。「月」が現れるのも唐突だ。『スクラップヘブン』には「月」の場面は一度もないはずだ。映画の物語とは関係なく「月」は登場する。第1連からのつながりからすると、「摩天楼」との対比として視界に現れるのだろう。聴き手は自分自身のスクリーンに、「摩天楼」と「月」を映し出すことになる。

 第3連には「この素晴らしき世界」が登場する。そしてそこに降り注ぐ「雨」が止む。「雨」上がりの世界に何か新しい風景が現れるというのは志村の好んだ展開だが、ここでは「新たな息吹上げるものたち」が顔を出す。「息吹」は何かの兆しのようだ。

 第4連の「おぼろげに見える彼方まで」は「この素晴らしき世界」の彼方のことだろう。ここからその彼方まで「鮮やかな花を咲かせよう」とある。意味の流れからすると、顔を出している「新たな息吹上げるもの」が端的に「花」なのだろう。しかも「鮮やかな花」である。志村が最も愛した景物は「花」であることに間違いない。『蜃気楼』という曲も『スクラップヘブン』という映画も、色彩的にはモノクロームの世界だ。その世界に「鮮やかな花」が現れることに聴き手はある種の感動を覚えるかもしれない。、

 第5連の「蜃気楼… 蜃気楼…」は、第2・3・4連の展開の帰結として、それらの景物や風景の最終的なイメージを描くものとして登場する。すべては「おぼろげに見える」ようであり、その像や残像の重なり方が「蜃気楼」という比喩で語られている。

 「月」「雨」「花」という自然の景物がゆるやかに連関しあっている。歌の主体は、「この素晴らしき世界」の「おぼろげに見える彼方まで」視線を移動していく。その風景の彼方に「鮮やかな花を咲かせよう」という主体の意志あるいは祈りのようなものが重ねられる。

  映画『スクラップヘブン』には、激しい「雨」が降るシーンはあるが、「月」や「花」が登場するシーンはない。およそ美しい風景や景物とは無縁の世界が描かれている。この第2・3・4連の展開は、映画のストーリーは直接の関係がないと考えるのが妥当だろう。(第5連の「蜃気楼」は映画とも重なり合うが)
 CD版のみにある第2連から4連までの歌詞は、映画から(監督の意図や脚本)というよりも、それに触発されてはいるが、志村正彦自身のモチーフから創られたのではないだろうか。

 (この項続く)

2017年8月30日水曜日

最後の完成作『ルーティーン』―ストックホルム5[志村正彦LN162]

 8月9日に帰国してから三週間が経つ。五回に分けてストックホルムへの旅を記してきた。記憶が紛れていかないうちにたどりたかった。

 前回、ストックホルムを「水の都」「島の都」と形容した。俯瞰的な視点でとらえるとそうなるが、普通に街の中にいると「島」にいるという感じはほとんどない。島と島とを架橋する橋も街路がそのまま延長しているように進んでいける。


 8月6日、二日目の朝は、ホテルのあるスルッセンからガムラスタンを経てストックホルムの中心部にあるセルゲル広場へ歩いていった。通りの名でいうと、「Katarinavagen」「Vasterlanggatan」「Riksgatan」を経て「Drottninggatan」に入っていく。「Vasterlanggatan」は旧市街ガムラスタンで最も人通りの多い通りであり、「Drottninggatan」はストックホルムの中心地の歴史ある通りで、この終点近くにストリンドベリ記念館はある。前日、この二つの有名な通りがつながっていると聞いた。地図を見ると確かにつながっている。時間の許す限り、この街路を歩いていくことにした。

 日曜日の朝だった。「Vasterlanggatan」ヴエステル・ローング通りにはほとんど人がいない。静けさに包まれている。商店もまだ開いていなかったが、ウインド・ディスプレーにはいろいろな土産物が飾られていた。お土産の目星をつけながら歩くのは楽しい。昼間この近くのレストランに戻る予定なのでその時に買うことにした。この界隈には十三世紀につくられた路地もある。



 国会議事堂を越えて中心部に入る。しばらくするとセルゲル広場についた。ここは『CHRONICLE』付属DVDの映像にも映されている。フジファブリックの四人のメンバーの人気投票「北欧選手権」をした場所の一つだ。
 このあたりで前方を見ると、かなり向こう側に屋上が青く光る建物が見えた。ストリンドベリの旧居・記念館だった。十分ほど歩けばそこまでたどりつけるだろうが、そろそろホテルに戻らねばならない時間だった。ここでひきかえした。

 ストックホルムは、伝統を感じさせる路地や新しい整然とした街路が混然と溶け合っている。戦禍に合わなかったことやビルの高さ制限を設けてきた都市計画がこのような街並をつくりあげたのだろう。

 志村正彦は、『CHRONICLE』DVDの映像で次のように語っている。

日本にはない大地っていうか、道とか、店とか、建物、空気、そういうものを多分なんか感じたんでしょうね。まさにこう映画で見たような風景がそのままあるんで。すごい不思議な国に来たような感じですね。やはり来た意味ありますね。日本のがスタジオの設備とか人の録音のテクニックとかぜんぜんあるんですけど。そういうものを取っ払ってもなにか大きく感じるものがこの街とか人にはあるんじゃないですかね。

 僕たち日本人にとっては確かに、ヨーロッパの街は「映画で見たような風景」であろう。映画の中に迷い込むような不思議さがあり、新しい感覚が刺激される。志村も何かをつかみとり、『Stockholm』という曲がこの地で誕生した。

 二日目は、ツアーのバスでノーベル賞の晩餐会が開かれる市庁舎、ヴァーサ号博物館、セーデルマルム島の丘などを巡り、観光船でユールゴーデン島を周遊した。
 夕方、タリンクシリヤラインのクルーズ船の乗場についた。夜7時半ストックホルムを出発、翌朝7時にフィンランドのトゥルクに着く。世界で最も美しいといわれるストックホルムの群島の間をぬうように進む航路だ。クルーズ船に乗るのは初めてだ。揺れもほとんどなく、部屋の丸い窓から群島を眺めた。2万4千もの島があるそうだが、陸のように見える大きな島、島と言えるのか戸惑うほどの小さな島、予想をはるかに超える数の島々が続いていた。

 フジファブリックのストックホルムでの録音というとふつうは『CHRONICLE』が思い浮かぶだろうが、僕にとっては『ルーティーン』という曲がまず第一に挙げられる。この曲は11枚目のシングル『Sugar!!』のカップリングとして2009年4月8日にリリースされた。
 志村正彦・フジファブリックの曲を一曲だけ選ぶとするならかなり迷ってしまう。『陽炎』『セレナーデ』『若者のすべて』『赤黄色の金木犀』、いろいろと浮かんできてとても絞り切れない。ある観点からするとこの作品になる、そんな選び方しかないが、そのような個別の観点を超えて一つだけ選択しなけれなばならないとするなら、今は『ルーティーン』を選ぶだろう。それほどこの歌は僕にとって唯一無二の存在だ。

 この曲は志村正彦が生前に録音して自ら完成させた音源としては最後の作品であろう。5thアルバム『MUSIC』収録曲は志村本人によって完成させたものではない。もちろん貴重な音源であることは間違いなく、制作したメンバー・スタッフの苦労には敬意を表したいが。
 『CHRONICLE』DVDの映像で、志村が「最後にちょっとセンチメンタルな曲を一発録りでもう、多分歌も一緒にやるか、まあでもマイクの都合でできないかな、もうみんなで一斉にやって「終了」って感じにしたくて。」と述べた上で録音したのがこの作品だ。「 Recording『ルーティーン』2009/2/6」というテロップがある。DVDには、その際の「ストックホルム”喜怒哀楽”映像日記::ルーティーン (レコーディングセッション at Monogram Recordings)」というフル映像もある。志村と山内総一郎のアコースティックギター、金澤ダイスケのアコーディオンによる演奏時の映像に志村のボーカル収録時の映像をミックスしたものだ。事実として、ストックホルムで最後に録音された『ルーティーン』が完成作としての最後の作品だと考えられる。そのような経緯もあり、この歌はかけがえのないものとなった。ストックホルムを訪れるのをここ数年ずっと願ってきた。

 船はゆっくりと進む。ゆっくりと日も暮れていく。群島の影が濃くなる。満月に近い月が水平線より少し上に出てきた。雲間に映えるおぼろげな月。バルト海に反射した月の光がどこまでも船を追いかけていく。波間にかすかにゆれる月光がたとえようもなく美しい。映画のラストシーンのような風景。出来過ぎの感じもしたが、素直にこの風景との遭遇を感謝した。志村の歌には月がしばしば現れる。そんなことも思いだしていた。




 ヘッドフォンを外してスマートフォンのスピーカーから『ルーティーン』を再生した。少しだけボリュームを上げて室内に響かせた。街でも何度か聴いたのだが、ストックホルム、スウェーデンにさよならをする時、もう一度聴きたかった。
 感傷的なことはあまりしたくないのだが、ここでは少し(大いにというべきだろうか)感傷に浸りたかった。

 志村はDVDの最後近くでこう述べている。

ほんとうにちょくちょく出てきたイタリアとか、フランスとか、そういう街に行ってその土地の音楽とかどんどん吸収したいっていう、そういう貪欲なものが芽生え始めてますね。だから癖になりそうですね、こういう旅が。

 彼はフジファブリックの音楽を世界へ広げていく手ごたえや手がかりを掴みつつあったはずだ。世界の様々な街への旅を続けることができたら、どんなに素晴らしい作品を創り出していただろうか。もともと彼の音楽は、彼の言葉は、「日本」という狭い枠組を超えたある種の普遍性を志向していた。

 『ルーティーン』が聴こえてくる。
 「明日も 明後日も 明々後日も ずっとね」という声。繰り返される日々の「ルーティーン」。日々の「生活」への祈り。それと共に持続していく「音楽」への志を伝えたかった。自らに言い聞かせたかった。この歌詞の中の「君」は音楽そのものかもしれない。そんな風に聴こえてくる。


  日が沈み 朝が来て
  毎日が過ぎてゆく

  それはあっという間に
  一日がまた終わるよ

  折れちゃいそうな心だけど
  君からもらった心がある

  さみしいよ そんな事
  誰にでも 言えないよ

  見えない何かに
  押しつぶされそうになる

  折れちゃいそうな心だけど
  君からもらった心がある

  日が沈み 朝が来て
  昨日もね 明日も 明後日も 明々後日も ずっとね
   
      ( 『ルーティーン』 詞・曲:志村正彦 )

2017年8月26日土曜日

水の都、島の都―ストックホルム4[志村正彦LN161]

 わずか一泊二日間だがストックホルムに滞在できる。志村正彦・フジファブリックのファンであれば、彼らの足跡を訪ねてみたいと思うだろう。

 フジファブリックの4thアルバム『CHRONICLE』を収録したスタジオはMonogram Recordings(モノグラムレコーディング)のものだが、webを見てみると、現在は制作会社としては活動していないようだ。スタジオやその機材も売却してしまったようだ。スタジオ以外ではフジファブリックのメンバー・スタッフの滞在したホテルくらいしか足跡をたどれる場所はない。どこにあるのだろうか。手がかりを探してみた。

 『CHRONICLE』にはDVDが付いていて、『ストックホルム”喜怒哀楽”映像日記』と題する二つのドキュメンタリーが収録されている。「25日間に渡る初の海外レコーディングドキュメント」の中に、滞在していたホテル入口の看板が映るシーンがある。その名を手がかりにグーグルマップで検索すると、ここではないかというホテルが見つかった。

 ストリンドベリ記念館を訪れた後にそのホテルを訪ねていったのだが、記憶の中にあるドキュメンタリー映像の風景とどこか違う。それでも一応ホテルや界隈の写真を撮ってきた。その時の様子をこのブログに書いているときに、再度、撮影した写真とドキュメンタリーの映像を比べてみた。やはり違う。もう一度該当ホテルの名をネットで検索すると、今は閉鎖されてしまったあるホテルの存在に気づいた。映像とグーグルマップのストリートビューの写真を確認すると、このホテルが彼らが滞在していたところらしい。すでに閉鎖されていて、別の名のホテルになっているようだ。そのために検索の上位に出てこなかった。もう一つの似た名前のホテルの方だと思い込んでしまったのだ。自分のうかつさにへこんだ。

 しまったいう落胆の後、もう一度マップを見た。周辺のエリアを拡大してみた。すると、500メートルほど先に僕たちが宿泊していたホテルがあった。偶然だった。わざわざ出かけなくても、ホテル近くの大通りを南西の方へ歩いていけばよかったのだった。十分もかからなっただろう。帰国してからこのことに気づいた。何たることか。でも、近くに泊まっていた偶然に感謝すべきかもしれないと思い直した。この界隈の雰囲気を知ることはできたのだからと。

 このエリアはガムラ・スタンの南に広がるセーデルマルム島(Södermalm)の中心地域にある。僕たちのホテルはこの地域の入口にあたるスルッセンにあった。ドロットニングホルム宮殿からホテルへ向かう途中、バスは大通りを進んでいった。あの日は「Stockholm Pride」というLGBTのパレードがあり、レインボーフラッグを持つ人々がたくさん歩いていた。この大通りをビデオで撮っていたことを思い出した。再生すると一瞬ではあるが、フジファブリックが宿泊していたホテルも映っていた。翌日もセーデルマルム島で有名な展望スポットのある丘への行き帰りにこの界隈を通っていた。

 このセーデルマルム島の地域はアート・ギャラリーや洒落たショップやカフェが並び、近年人気が出てきたエリアのようだ。ガムラスタンやストックホルム中心街の眺めが素晴らしい丘も有名だ。その丘からは、観光船が行き交い、連絡船やクルーズ船が停泊する「水の都」としての景色も堪能できる。ドキュメンタリー映像を見返すとスルッセンにある展望台から撮影した風景をはじめこの地域で撮影された映像がいくつもあった。
 もっとも、志村正彦はあるインタビューで「ホテルとスタジオの行き来以外ではあんまり出歩いてないんです」と述べているので、彼があまりストックホルムを歩いていないことは確かなのだが。

 今回の記事の最後に、ストックホルムで撮影した写真の中からセーデルマルム島に関わりのあるをアルバム風に添付してみたい。


 一日目の夜十時近くにスルッセンにあるホテル近くからガムラスタンを眺めたもの。白夜ではあるが、そろそろ日が暮れていく時間だった。スルッセンはセーデルマルム島の入り口にある。




  二日目の昼、グランドホテル近くの観光船乗り場に行った。一週間続く「Stockholm Pride」イベントのレインボーフラッグが公共施設やホテルをはじめ商店やレストラン、街路や路地の至る所にあった。僕らが載った観光船にも飾られていた。街全体が「自由」と「尊厳」の一週間を祝福していた。




 僕たちが乗った観光船。向こう側の景色は右側がガラムスタン、中央がセーデルマルム島。この船はユールゴーデン島(Djurgården)を1時間ほどで周遊してきた。




 船が出発してしばらくすると、向こう側にセーデルマルム島がよく見えた。「VIKING LINE」のクルーズ船が停泊していた。中央やや右に見える高い塔はカタリーナ教会の塔。この島の中央部は小高い丘になっている。



 航海中の「VIKING LINE」の 「Cinderella」(シンデレラ)号。 ストックホルムからエストニアのタリン、フィンランド領の小さな島マリエハムン間などのバルト海を運航するそうだ。



 観光船が到着する直前に見えた橋。ストックホルムの中心だけでも十四の島があり、たくさんの橋が掛けられている。



 ストックホルムは「水の都」、北欧のベネチアと言われているそうだが、むしろ「島の都」と呼んだ方がいいかもしれない。
 「島」にはそれぞれの歴史や個性があり、それが集まってストックホルムという大都市を形成している。

 志村正彦は、『CHRONICLE』に関するインタビュー(文:久保田泰平)で次のように述べていた。

 日本で録音するのも効率的でいいんですけど、海外のほうがより音楽に集中できるし、ストックホルムっていう街は治安もよくてリラックスできたし、向こうの空気を吸って、向こうの人たちと出会って、音楽を聴いて、それに触発されて「ストックホルム」っていう曲が出来上がったりとか、そういう化学反応みたいなのも起きたから、海外でやってよかったですね。

 滞在していたのは2009年1月から2月にかけての真冬の季節だった。夏とは全く異なる風景の感触や色合いだっただろう。


  静かな街角
  辺りは真っ白

  雪が積もる 街で今日も
  君の事を想う
             (『Stockholm』詞曲:志村正彦)

 このように歌われる『Stockholm』を聴くと、彼にとってこの街は「雪の街」「氷の街」であったようだ。『CHRONICLE』付属DVDの映像にも、雪でおおわれた街路やスルッセン西側のメーラレン湖の結氷が映されている。
 短い夏と厳しい冬の街、夏の湖の水と冬の雪景色ということになると、わずかかもしれないが、ストックホルムの季節の感覚は志村の故郷富士吉田を想起させる。


2017年8月22日火曜日

ストリンドベリ(Strindberg)、公園の銅像、芥川龍之介への影響-ストックホルム3

 ゆるやかな坂を上がり、Drottninggatan 85番地にある「青い塔」の一室、ストリンドベリの旧居・記念館にたどりついた。もう午後7時半を過ぎていた。当然閉館している。でも時間には関係なかった。この記念館は改装のために半年ほど閉館中ということを知った上で訪れたのだった。

 四ヶ月ほど前、ストリンドベリ記念館の開館日や時間を確認し、訪問時間を確保できるツアーを探して予約したのだが、出発の一月ほど前にサイトを見ると、7月から来年1月までリノベーション工事のために休館するという知らせがあった。予想外の展開にどうしようかと思案したが、すでに準備を進めていた。勤め人であるゆえ休暇期間も調整していた。結局、そのまま旅行することにした。近くの公園には銅像もあり、ゆかりの通りを歩くこともできる。そう考え直した。

 ストリンドベリ記念館は晩年四年間の住居を使ったものだ。youtubeには内部を撮影した映像がいくつもある。当時の彼の書斎や寝室がそのまま残されている。個人記念館としては王道を行く在り方だ。でも映像を見る限り、展示方法は現代の記念館としては古びている感じもする。だから改装されることになったのだろう。
 入口までたどり着いたときに、やはり、とても残念な気持ちに襲われた。仕方がない。入口の写真を撮りこの場を去った。



 「青い塔」の脇の道を少しだけ上っていくと「Tegnérlunden公園」がある。ここに銅像があるはずだ。入るとすぐにかなり高さのある銅像が見つかった。想像していたものもずっと大きくて立派だ。高さは5メートル近い。すぐ下から見上げても姿が分からない。離れてからもう一度見るとようやく全体像がつかめた。ストリンドベリで間違いない。裸身の像で、顔はうつむきながら何かを凝視している。台座の周りには彼の作品を形象化した図柄が刻まれている。ストリンドベリの精神の荒々しさを表現しているようで圧倒される。



 落ち着きのある美しい公園だった。ベンチに腰掛けて三十分ほど過ごした。散歩する人は見かけたが、この銅像を見に来る人はいなかった。(グーグルマップにもこの像については記されていない。観光客が訪れることもないのだろう)
  周りは古い建物に囲まれているのだが、ここには静かな時間が流れている。芥川龍之介とストリンドベリのことをぼんやりと考えた。

 僕は芥川龍之介の晩年の作品について持続的な関心を持ち、論文も少し書いてきた。
 1927年、芥川が亡くなる数か月前に書いた遺稿『歯車』は、その題名が象徴的に示すように、偶発的な出来事やそれらの「暗号」のような連鎖に対する不安、関係妄想的な気分、様々な文学作品(自作や海外の作品を含めて)への言及などの多様なモチーフが「歯車」のように絡み合い作用しあい、「意味」を生みだしていく。その構造を分析するのが修士論文のテーマだった。その際、ストリンドベリの『地獄』(Inferno, 1897年)が芥川『歯車』に与えた影響についても、若干ではあるが考察した。ストリンドベリと芥川は、作家の生活と作品の創造という関係性において共通性がある。

 ちょうど百年前になる。1917年1月12日、当時二四歳の芥川は『地獄』の英訳本に「この本をよんでから妙にSuper Stitiousになって弱った。こんな妙なその癖へんに真剣な感銘をうけた本は外にない」という書き込みをしている。(この蔵書は日本近代文学館に収蔵されている)その後、芥川はストリンドベリをかなり読み込んだ。『歯車』はストリンドベリ『地獄』へのオマージュのような小説でもある。

 ストリンドベリは当時のスウェーデンを代表する作家としてノーベル文学賞の声も上がっていたが、この時代は「立派な人物像」が大きな判断材料であり、この賞に値するような生き方が求められていたそうだ。彼は「多数を敵に回すような言動」があったために受賞できなかったと言われている。

 ストリンドベリの銅像がある公園でしばらく過ごした後、「Drottninggatan」(ドロツトニング通り)に戻った。中央駅の方向を写真で撮った。ゆるやかな下り坂の先にはストックホルム中央駅近くのセルゲル広場がある。さらに向こう側には旧市街ガムラスタンがある。ドイツ教会だろうか。彼方に塔が見えた。


 「Drottninggatan」は「女王通り」という意味で、17世紀につくられた由緒ある街路だ。1912年1月、ストリンドベリが亡くなる四か月ほど前に、かなりの数の青年たちが彼に敬意を表すために炬火行列をした。病身の作家は「青い塔」のバルコニーからそれにこたえたという。
 今年の4月この通りで、トラックの暴走による痛ましいテロ事件が起きている。ストリンドベリが活躍した時代から百年後のこの世界は複雑に引き裂かれている。ジャーナリスト出身であり、社会、政治、宗教、文学、科学について鋭い批評をたくさん書いた彼なら、現在の世界に対してどのように考えただろうか。

2017年8月19日土曜日

ストリンドベリ(Strindberg)、地下鉄駅の壁面、青い塔-ストックホルム2

 午後6時半頃、スルッセンにあるホテルに到着した。
 スルッセンとは「水門」のこと。水位の異なるバルト海とメーラレン湖を繋ぐ水門がここにある。ホテルの窓からガムラスタンを眺望できた。リッダーホルム教会、大聖堂、ドイツ教会。第二次世界大戦に参戦しなかったため空襲がなく、13世紀の街並みが残っている。

 夏は白夜の季節で午後十時頃まで明るい。まだまだ外出する時間がある。白夜をありがたく思う。
 午後7時、ストリンドベリゆかりの場所に向けて出発する。スルッセン駅から地下鉄に乗り、四つ目のRådmansgatan駅(ロドマンズガータン)で降りる。十分もかからなかった。後方寄りの出口に進むと、通路の壁面のタイルにストリンドベリの写真が大きくプリントされている。夕焼けのような赤の地色が目立つ。関連のパネルも飾られていた。現在のスウェーデンでは古典的な作家に入り、現代の文学としてはあまり読まれていないのだろうが、知名度は高いのだろう。

 

 彼の存在は今の日本ではあまり知られていないので、略歴を紹介してみたい。
 ストリンドベリ(Johan August Strindberg)はスウェーデンの劇作家、小説家。1849年1月22日、ストックホルムで生まれる。ウプサラ大学で学ぶが中退、職を転々とする。1874年、王立図書館司書となる。近衛士官の妻シリ・フォン・エッセンと恋に落ち、77年、結婚。 79年、自然主義小説『赤い部屋』)を発表、文壇の注目を浴びる。『父』 (1887) ,『令嬢ジュリー』 (88) 等の戯曲が高く評価。91年にシリと離婚。この経緯は小説『痴人の告白』(1888)に詳しい。

 92から96年にかけて、ベルリンやパリに滞在。93年、オーストリアの記者、フリーダ・ウールと結婚、97年に離婚。この数年間はいわゆる「地獄時代」で、迫害妄想的な精神の異常をモチーフに『地獄』(1897)、『伝説』(1898)等の自伝的小説を創作する。やがてキリスト教に救いを見出し、象徴劇『ダマスカスへ』(1~2部 1898,3部 1904) に回心の過程を表し、後期の創作活動に入る。1901年、ノルウェーの女優ハリエット・ボッセと結婚、04年に離婚。07年、小規模な「親和劇場」を開き、小品の室内劇『稲妻』等を発表。1912年5月14日、胃癌で死去。享年63歳。葬儀には王室、政府、国会、大学の代表者が参列、数千人の市民が見送った。

 壁面には妻たちの写真がプリントされたものがあった。


 彼が28歳の時に27歳のシリと、44歳で21歳のフリーダと、52歳で23歳のハリエットと三度結婚する。そして晩年には若い女優、ファンニー・ファルクナーに求婚した(結婚には至らなかったが)。パネルの左上下、右上下の順で、シリ、フリーダ、ハリエット。一番右下の女性はファンニーだと思われる。すべて若く美しい女性であり、すべて短い結婚生活で終わっている。
 ストリンドベリには女性嫌悪・憎悪(その裏側には女性崇拝があるのだが)が凄まじい作品が多い。時には迫害妄想や被害妄想に至る精神の軌跡が描かれている。

 Raadmansgatan駅の階段を上がると、Sveavägenという大通りに出る。この日は「Stockholm Pride」という北欧最大のLGBTのパレードがあった。その関連イベントかは分からなかったが、大勢の人が詰め掛けていた。道路にオープンカーが行きかい、街路にはダンスミュージックが大音量で流されていた。「Pride」、尊厳や自由を重んじる社会なのだろう。

 喧噪の大通りを通り抜け、ゆるやかな坂を上っていく。目的地の Drottninggatan(ドロツトニング通り)85番地を目指した。五分も経たないうちに、角の頂上が青く光る建物が見えてきた。「青い塔」( Blå tornet )、ストリンドベリの旧居だ。
   

 1908年、59歳の時に、Drottninggatanという由緒ある通りの上り坂にあるこの美しい建物内の部屋に移り住んだ。ここが彼の最後の住居となった。1912年に亡くなるまで彼はこの家に閉じこもりがちだったという。孤独に向き合いながら晩年の作品を生み出していった。


2017年8月17日木曜日

Bob Dylanの似顔絵、Evert Taubeの銅像―ストックホルム 1

  8月上旬、妻と二人で北欧に行ってきた。ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの三か国を回るツアーだが、一番の目的地はスウェーデンの首都ストックホルムだった。

  ストックホルムというとまず思い浮かぶのは、僕にとって作家のストリンドベリ(Johan August Strindberg)だ。芥川龍之介が影響を深く受けた作家である。『令嬢ジュリー』などの演劇は今でも上演されることがあるが、小説家としてはすでに忘れられた存在かもしれない。大正時代にはたくさん翻訳されていて、大正から昭和の初期にかけて文学者によく読まれていた。この街にはストリンドベリの記念館やゆかりの場所があり、以前から訪れてみたかった。

 そして、志村正彦・フジファブリックのファンとしては、4thアルバム『CHRONICLE』をレコーディングした街として記憶されている。この街に25日間滞在して全15曲が収録された。最後の曲『Stockholm』は現地で作詞作曲されたそうだ。さらに、かけがえのない名曲『ルーティーン』もストックホルムで録音されている。

 8月5日の昼前、空路でノルウェーのベルゲンからストックホルムへ。市街へ向かう途中で王家の住居ドロットニングホルム宮殿を見学した。宮殿前の湖には遊覧船だろうか、停泊中だった。「水の都」らしい風景。水が涼しげだ。緑も多い。気候も暑くはなく、日陰に入ると涼しいというか肌寒いくらい。北欧の人は短い夏を慈しむ。



 宮殿を離れ、旧市街のガムラスタンへ。13世紀に作られたという街路をしばらく散策。ところどころ路地裏の風景が広がる。ストックホルムというとやはりノーベル賞が浮かぶ人が多いだろう。中央の広場に面したノーベル博物館に入ることにした。受賞者の展示ディスプレー装置が並んでいる。山梨出身のノーベル生理学・医学賞受賞者、大村智先生の画面を選ぶ。「Nirasaki,Yamanashi」という字を認めると、山梨県人として単純にうれしくなった。



  ボブ・ディランを選択すると、肖像が写真ではなく似顔絵だ。鋭さに欠けた間延びしたような表情。かなり微妙だ。しかも似顔絵であるゆえに変に自己主張しているようで場の雰囲気には合わない。本人の意志なのか。ロック的といえばロック的ともいるが。売店には評伝も平積みされている。ディランがノーベル博物館に(いささかおさまりが悪い形で)「収蔵」されたことは確かだ。




 博物館を出て近くのレストランで夕食をとる。前の広場の向こう側に、眼鏡をかけた銅像があった。地面のプレートには「Evert Taube」と刻まれている。抱えているのは楽譜のようで音楽家かもしれない。何となく感じるものがあって写真を撮る。



 帰国してから調べると、Evert Taube(エヴェルト・タウベ、1890-1976)という音楽家、詩人だった。20世紀の「troubadour(吟遊詩人)」の伝統の体現者らしい。若い頃、各地を航海し、アルゼンチンでラテンアメリカの音楽に興味を持つ。youtubeにたくさんある音源を聴くと、確かに、タンゴ調の明るいリズムに乗せて歯切れよく歌う。スウェーデンのリュートという不思議な形の楽器で弾き語る写真や映像もあった。歌詞は全く分からないが、「R」の巻き舌の音がここちよい。メロディもリズムもシンプルだが、軽快でどこか懐かしく響く。反ファシスト、反戦の歌もあり、スウェーデンで最も尊敬されている音楽家の一人だそうだ。新しい50クローナ紙幣の肖像にもなっている。

 スウェーデンには吟遊詩人やシンガーソングライターを高く評価する伝統があるようだ。ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したのも、このようなスウェーデンの伝統の力があったのかもしれない。

2017年7月30日日曜日

鏡に映し出された「覚悟」-『ダンス2000』[ここはどこ?-物語を読む9]

  ディスコと言うと年がばれるが、ディスコにしろクラブにしろ縁のない人生を送ってきた。オバサン世代にとって、ディスコと言えばマハラジャか。バブルとボディコンとお立ち台と羽扇、行ったことはないけれど、ずいぶん映像化されたし、イメージはできる。もちろんそこに身を置いていた人たちとは、全く実感は違うのだろうけれど。

 世の中がバブルに浮かれていたころ、裸電球の四畳半に住んでいた。「神田川 」の時代からはだいぶ時が経っていて、さすがに遊びに来た友達が驚くほどのぼろ屋だったが、駅にも近くて、お風呂もあって、新宿や渋谷に20分くらいで行けるその部屋をそれほど不満に思ってはいなかった。映画や芝居を観に行ったり、ライブに出かけたり、友達と居酒屋で飲んだり、本を読んだり、やりたいことは山のようにあって、踊りに行くという選択肢は優先順位をつけると底につきそうなくらい低かった。理由はいろいろある。お金がかかる(当時、若い女の子が自分でお金を払おうと考える時点で既にずれていたかもしれない)。ボディコンが着られない。特段ディスコミュージックが好きではない。そこで心を通わせる男の人に会えるとは思えない(もしかしたらいたかもしれないけれど)。まあ 、一言で言ってしまえば、私はディスコに似合わなかったのだ。

 時代的に『ダンス2000』の舞台はクラブだろうか。どちらも縁のないオバサンにはディスコとクラブの違いが奈辺にあるかわからない。わかるのは『ダンス2000』の主人公がその場に全く似合っていないということである。


  ヘイヘイベイベー 空になって あの人の前で踊ろうか
  意識をして 腕を振って 横目で見てしまいなよ

  少しの勇気 振り絞って

  いやしかし何故に いやしかし何故に
  踏み切れないでいる人よ


 出だしこそ「へイヘイベイべー」と始まるものの、これは一種の記号のようなものだ。自分が軟派で軽い男(女の人のセリフとは思えないので)であると世間に示しているのだが、そのポーズはあっという間に崩れてしまう。「空になって……踊ろうか」とか「意識をして腕を振って」とか、わざわざ言うのは、主人公である《彼》があえて意識をしなければそうできないことを物語っている。


 また、この曲でもっともインパクトのある歌詞「いやしかし何故に」にも《彼》の性格は表れる。「いや」はそれまで考えていたことに疑いを持って立ち止まることばだ。「しかし」はそれまで考えていたこととは違う方向に向かうことばだ。「何故に」は理由を探ることばだ。たったワンフレーズの間に《彼》の頭は目まぐるしく回転している。この主人公は忘我とか没頭とか夢中とかいうダンスの世界とはずいぶん遠いところにいるように思える。

 実は『ダンス2000』の物語は何気ないようでいて意外と手ごわい。出だしの2行からして、誰が誰に何を言っているのかという単純な点でさえ、いくつかの解釈が考えられる。

①主人公である《彼》が自分自身に言っている。
 この場合は「ベイベー」が「あの人」で、その前で踊ってアピールしようということだろう。しかし、そうなると「横目で見てしまいなよ」が気になる。「しまいなよ」というのは自分自身に呼びかけることばとは思えないからだ。
②主人公である《彼》が「ベイベー」に促している。
 この場合は主人公と「ベイベー」の他に第三者の「あの人」がいることになる。「横目で見てしまいなよ」は「ベイベー」に向けられたことばとして違和感はなくなるが、今度は「あの人の前で踊ろうか」が難しくなる。自分と「ベイベー」の二人であの人の前で踊ろうと誘っているとも考えられるし、演出家が演者に演技をつけているように「ベイベー」に「やってみなさい」と言っているようにも感じられる。

 どう解釈しても聴き手の自由だが、私自身は②の方がしっくりくるので、今回は②の解釈に沿って進めてみたい。

 ②だと「ベイベー」を誘っているのかと思って聴いていたら、実は第三の人物「あの人」にアピールするように「ベイベー」を促していたということになる。しかし、《彼》の思いとは違って、「ベイベー」は「あの人」を横目で見ながら踊ることに踏み切れないでいる。何故踏み切れないのかと言いながら、《彼》の中に去来しているものはどのような感情なのだろう。もどかしさか、それとも裏腹な安堵感だったのか。それは《彼》と「ベイベー」の関係による。単純に彼女の恋を応援している知り合い、実は彼女のことが気になっているが彼女の気持ちが別の人にあることに気付いている内気な友人、たまたまその場で彼女を見かけた赤の他人、いろいろ考えられる。

 いずれにしても「踏み切れないでいる人よ」という時点まできて、これは観察者の視点だと気づかされる。つまり「ヘイヘイベイベー」以降これまでのことばは、彼女に直接語りかけたのではなく、彼女の観察者である《彼》の内心の声であると捉えることができる。「ヘイヘイベイベー」と「いやしかし何故に」が同じ人の口から発せられるのは違和感があるが、内心の声だとすれば納得がいく。
 わが主人公はいつの間にか当事者から観察者になってしまっているのだ。

 しかし、この曲はなかなか聴き手に一つの物語を描かせてはくれない。主人公はすぐに観察者の立場を放棄して、自分の気持ちを吐露し始める。


  ヘイヘイベイベー 何をやったって もう遅いと言うのなら
  今すぐでも投げ出す程の 覚悟ぐらいできてるさ


 ここに描かれるのが、「ベイベー」と《彼》と二人の関係だとすれば、「ベイベー」に「もう遅い」と言われるのは《彼》で、「投げ出す程の覚悟」をしているのも《彼》である。第三者である「あの人」に好意を寄せる彼女にとって、今さら《彼》が何をしても心が動くことはなく、《彼》は自分の恋をあきらめる覚悟をしていると解釈することもできる。だが、「もう遅いと言うのなら」と仮定表現になっているのだから、まだ「もう遅い」と言われたわけではない。「少しの勇気振り絞って」一発逆転を狙うこともできるはずだ。 しかし、「踏み切れないでいる人よ」と《彼》は今度は自分自身の観察者になる。
 
 それも一つの物語だ。しかし、ディスコに似合わなかったオバサンには、クラブに似合わない《彼》を主人公にした、もう一つの捨てきれない物語がある。

 「ベイベー」と《彼》とは赤の他人だ。心ならずもこの場にやってきた主人公はなじむことも楽しむこともできずに観察者としてフロアを眺めているうちに「ベイベー」を発見し、「あの人」を意識しながらアピールすることすらできない彼女をひそかに応援する。そして、遠くからひそかに彼女に向けて自らの決意を語る。それは《彼》がここにやってくる前からずっと考えてきたことなのだろう。何が「もう遅い」のか、何を「投げ出す」「覚悟」なのかはわからないが、それは《彼》にとって人生を左右する大切な事なのだ。《彼》は誰かに向けてその覚悟を語らなければならない。その誰かが、家族でも恋人でも友達でも同僚でもなく、赤の他人の、ことばを交わしたことすらない「ベイベー」であ るというようなこともあり得ると思うのだ。たぶん「ベイベー」はその場で《彼》が見つけた鏡なのだろう。鏡に映し出された「覚悟」とためらいを行きつ戻りつしている自分を眺めながら、《彼》は狂騒の中で独り異次元を生きている。

2017年7月23日日曜日

李相日監督『スクラップ・ヘブン』-『蜃気楼』2[志村正彦LN160]

 どの映画にもその中心となる風景のイメージがある。
 開発途中で放置された地区に取り残されたように存在している公衆トイレ。そのありえないほど汚れて荒廃したトイレの彼方には大都市らしき街並みや高層ビルが広がっている。近景のトイレと遠景の高層ビル街。李相日監督『スクラップ・ヘブン』にはこの対比的なショットが数回現れる。近景から遠景の方向へ視線が移動するように、物語は復讐劇として動き始める。


『スクラップ・ヘブン』DVD


  警察官のシンゴ(加瀬亮)、公衆便所掃除人のテツ(オダギリジョー)、薬剤師のサキ(栗山千明)の三人は、たまたま乗り合わせた路線バスがバスジャックされたことで知り合う。この三人はそれぞれの事情を抱え、現実に満たさていない。
 シンゴとテツはその後再会し、開発地区の公衆トイレを舞台に「復讐請負業」を始める。依頼人の復讐をこの二人が代行するのだ。「世の中想像力が足りねぇんだよ」というテツのセリフがその推進力となるが、物語の後半から事態は想像力を超えて展開し始める。

 一方、サキは黄色い液体の小瓶の爆弾を密かに製造している。何故なのか理由は分からないままに、「全部を一瞬で消しちゃう方法」の具現化である小瓶は大量に造られていく。テツとシンゴ、サキとシンゴという組み合わせで事件は動いていくが、「世界を一瞬で消す」欲望をめぐって、この三人が絡まり合う。

 『スクラップ・ヘブン』の色や光のイメージは独特だ。内部がかなり破壊されひどい落書きだらけの公衆トイレの形容しがたい色合い。殴り合いの暴力による血の赤色。サキの製造する爆弾の黄色い液体(薬剤師らしく点滴液のような色だ)。身体的で生理的な感覚の色合いと大都市の全景のくすんだ灰色が色の基調をなす。

 音楽監督の會田茂一によるサウンドもこのイメージを補強している。DVDには六曲のサウンドトラックが特典として収録され、作曲は五曲が會田茂一、一曲が二杉昌夫と記されている。編曲は曲により異なるが、會田茂一、中村達也、佐藤研二、生江匠、二杉昌夫の名があり、この編曲者たちが演奏も担当しているようだ。インダストリアルな曲調のインストルメンタルで、この映画の感触に非常に合致する。

 物語の最後で、シンゴは「世界を一瞬で消す」欲望に向き合わざるを得なくなる。一人でその欲望に結末をつけようとする。もともとシンゴは受動的な位置にいて、能動的なテツやサキに引きずられるようにして行動化(アクティング・アウト)していく。この物語では受動的な存在のシンゴがむしろ主人公であり、彼が初めて主体的な位置にたどり着くのがラストシーンだ。結末は意外というか偶然というのか、ある意味では必然のように展開するのだが、ここに記すことは控えよう。

 映画本編の終了と共に間髪を入れず、エンディングテーマ曲のフジファブリック『蜃気楼』(詞曲:志村正彦)が流れだす。


  三叉路でウララ 右往左往
  果てなく続く摩天楼

  この素晴らしき世界に僕は踊らされている
  消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる

  おぼろげに見える彼方まで
  鮮やかな花を咲かせよう

  蜃気楼… 蜃気楼…


 映画版の『蜃気楼』は、六分近くあるオリジナル音源の半分程度の3分10秒ほどに縮められた。タイトルバックに合わせて時間を調整したのだろうが、歌詞の半分が省かれたのは映画のモチーフとのつながりを重視したとも考えられる。この点については後に考察したい。

 志村正彦の声が聴こえてくると、物語がもう一度動き始める。映画の本編は終わっている。その断絶と共にある種の余韻というのか余韻以上ともいえるような重厚な言葉の響きを伴って、歌が始まる。

  (この項続く)

2017年7月9日日曜日

音の連鎖と反復-『蜃気楼』1 [志村正彦LN159] 

 初めてフジファブリック『蜃気楼』(詞・曲:志村正彦)を聴いたときの戸惑いと驚き。かなり前の事だが、記憶をたどりなおして書いてみたい。
 ギターとピアノが奏でる静謐で不穏なイントロの後、志村正彦のどちらかというと無表情な声が立ち上がってきた。

  サンサローデウララー ウオーサオー

 この言葉というより音の連なりが聞こえてきた時に、何を意味しているのか掴めなかった。続く「ハテナクツヅク マテンロー」。こちらの方は「果て(し)なく」「続く」と区切れそうだ。そうなると「マテンロー」は「摩天楼」か。そうであれば、さかのぼると「ウオーサオー」は「右往左往」になるのかもしれない。

 歌詞カードを参照してみた。こう書かれてあった。


  三叉路でウララ 右往左往
  果てなく続く摩天楼


 「サンサロー」は「三叉路」。文字を読むことでやっと了解できた。「三叉路」「右往左往」「果てなく続く」「摩天楼」という意味がつながり、ぼんやりとではあるが、ある風景が浮かび上がってきた。


  喉はカラカラ ほんとは
  月を眺めていると


 第1連の「ウララ」に呼応する「カラカラ」。作者の志村正彦は音の繰り返しにこだわっているようだ。ここでは彼がよく描く「月」が登場している。
 音だけで追いかけていくことを断念して、歌詞カードを見ながら聴くことにした。

 第3連から最後まではこのように展開していく。


  この素晴らしき世界に降り注ぐ雨が止み
  新たな息吹上げるものたちが顔を出している

  おぼろげに見える彼方まで
  鮮やかな花を咲かせよう

  蜃気楼… 蜃気楼…

  この素晴らしき世界に僕は踊らされている
  消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる

  おぼろげに見える彼方まで
  鮮やかな花を咲かせよう

  蜃気楼… 蜃気楼…


 全体を通してみると、「サンサロー」「マテンロー」「シンキロー」という単語末尾の音韻の反復と連鎖が耳に刻まれていく。視覚化すると、「三叉路」「摩天楼」「蜃気楼」という三つの風景が目に浮かんでくる。人工的な風景や不可思議な風景。それに対比されるように、「月」「雨」「花」という自然の風景も現れる。この三つは志村正彦の詩的世界に不可欠の景物だ。
 特に「おぼろげに見える彼方まで/鮮やかな花を咲かせよう」という一節の中で「花」が取り上げられていることには感慨を覚えた。

 題名であり歌詞のエンディングの言葉でもある「蜃気楼」。辞書によると、「熱気・冷気による光の異常な屈折のため、空中や地平線近くに遠方の風物などが見えたり、実像の下に虚像が反転して見えたりする現象」だ。現象としての「蜃気楼」を目撃したことはないが、芥川龍之介の短編『蜃気楼』のモチーフとなっていることで、この言葉には親しんできた。芥川の晩年の心象風景を象徴する言葉がこの「蜃気楼」である。

 「蜃気楼」という歌声の背景には、ピアノとギターの不協和音、即興演奏のような展開があった。「不穏」と「不安」を象徴するかのような演奏が、この作品が映画のテーマ曲として制作されたことを想起させた。歌の言葉も曲の展開も、映画作品との対話の中でほんとうの意味を明らかにしていくのだろう。そのような予想がもたらされた。

 『蜃気楼』は李相日監督の映画『スクラップ・ヘブン』のエンディングテーマとして録音された。音源は2005年9月7日発売の6枚目のシングル『茜色の夕日』のB面としてリリース。映画は2005年10月8日に封切。ほぼ同時期の公開となった。
 七年ほど前、この歌を聴いた後で『スクラップ・ヘブン』のDVDを見たのだが、予想をはるかに超え、『蜃気楼』はエンディングテーマとして傑出していた。

 次回以降、李相日『スクラップ・ヘブン』や芥川龍之介『蜃気楼』に言及しながら、志村正彦・フジファブリックの『蜃気楼』についての試論を書いていきたい。「右往左往」することになろうが、この歌を追いかけていくことにしよう。

  (この項続く)

2017年6月11日日曜日

HINTO『花をかう』LIVE映像 -言葉の響き合い

 梅雨に入り、初夏の花の季節を迎えようとしている。雨上がりの花壇の色彩は強い日差しをあびて、ひときわ濃くなる。

 四月末にHINTO『花をかう』のLIVE映像がHINTOofficialで公開されてから、数日に一度は視聴してきた。この歌の尽きない魅力を味わっている。




  2016年10月30、渋谷WWWでの収録。『HINTO release ONE-MAN TOUR 2016』最終日の演奏で、運よく、この日はその場にいることができた。映像を見ると記憶も再生される。この歌のイントロが始まると場内が静寂に包まれたこと。安部コウセイがラップ風のジェスチャーをしながら歌い出したことに目を奪われたこと。語りの要素と歌の要素がおおらかに溶け合っていたこと。LIVEならではのいくつかの発見があった。

  特筆すべきなのは、LIVE映像に歌詞のテロップが付加されていること。これは極めて珍しい。歌の言葉を伝えたいという意志の現れだろうが、このような方法は素直に歓迎したい。
 映像を追いながら、安部コウセイの歌と歌詞を追いかけていくと、『花をかう』の声と言葉は絶妙に響き合っているのが分かる。ギター、ベース、ドラムスの音色と律動はその響き合いにさらに複雑な効果を与えている。

 最近、「SPICE」というネットメディアで「ホリエアツシのロックン談義 第3回:SPARTA LOCALS / HINTO・安部コウセイ」という記事が掲載されていた。こんな発言がある。


安部:メロディから作っていって、詞が乗ってガッカリすることってある? 俺は時々、これめっちゃいい曲じゃんっていう曲に詞が乗ったらガッカリすることがあるんだけどさ(笑)。

ホリエ:自分で?

安部:そう。嘘英語みたいな仮の歌詞で作っているときが一番カッコよくて、詞が乗ると「はぁ、なんだこれ」って。俺の場合は声も変わっちゃうというか。日本語にスポイルされて日本語の声になっちゃう。

ホリエ:ああ、それは俺もそうだよ。俺がentでほとんど英語で書いてるのはそういう理由。英語っぽい節回して歌いながら曲を作ってるから、それを無理に日本語にすると歌い方も変わっちゃって、語気が変わってきたり。

安部:やっぱり日本語と英語ってかなりギャップがあるんだなぁって。


 安部は、嘘英語みたいな仮の詞から日本語の詞に作りかえていく際に「日本語にスポイルされて日本語の声になっちゃう」という興味深い発言をしている。このニュアンスはよくつかめないが、「ロックの声」の乗りからほど遠くなる感じだろうか。そして、日本語と英語の「ギャップ」への言及。日本のロックの歌詞にはその成立の時代から、日本語か英語(カタカナ語)かという問題があった。ことは複雑であり、安易に語ることはできない。一つだけ逆説を言うなら、この「ギャップ」があったからこそ、この「ギャップ」と闘ったからこそ、日本語ロックは独自の優れた果実を得たのだろう。
 
 例えば、『花をかう』の「花をかう トゥユー」、あるいは『シーズナル』の「めぐってめぐってくシーズン」。どちらにも素晴らしい日本語と英語(カタカナ語)のミクスチャーがある。私たち聴き手はなにげなく無意識に聞いてしまうが、この言葉の複合のありかた、意味と韻律の作用に、私たちのロック、その響き合いの現在がある。

2017年5月29日月曜日

花の季節

 このブログを書いているテーブルからは窓越しに小さな花壇が見える。小さい花たちが惜しみなく彩りを風景に放っている。赤のチェリーセージ、薄紫のジャーマンアイリス、ピンクのバレリーナという名のバラ。冬からなんとか持ちこたえているパンジーとビオラ。少し気温が上がり過ぎ、その強い日差しに耐えているが、そろそろ終わりそうな気配も漂う。
 この花の季節が過ぎたら初夏を迎えるのだろう。

 『セレナーデ』の一節、「明日は君にとって 幸せでありますように/そしてそれを僕に 分けてくれ」に込められた《祈り》について考えあぐねている。そんな時は書くのを止めてほんとうに好きな作家を読むようにしている。例えば須賀敦子の散文。《祈り》という主題であれば須賀の言葉ほどふさわしいものはない。

 『須賀敦子全集』を読み返すのは三度目か。ゆっくりと読み進めていく。第8巻の書簡に次の手紙が収められていた。1960年2月21日、ローマにいる須賀敦子がミラノの住むペッピーノにあてたものだ。現代作家の書簡を読むのは私生活をのぞきこむようで後ろめたい気持ちにもなるが、もともとイタリア語で書かれたものを翻訳者が訳したものなので、《作品》として受けとめることもできる。

 ミラノではまだ雪が降っているのでしょうか。こちらでは、私の窓の下のスイス人学校の庭のアーモンドの花はもう終わりました。ヨーロッパの大部分の花と同じように「ビジネスライク」に咲くのです!こうした、ただたんに果実を得るためだけに花を咲かせるということを、こうもあからさまに示す樹木を見ていると、なんだか悲しい気持ちにさせられるものがあります。私には、日本の花の独特の美しさは、少なくとも部分的には、その花の、まるで花開きながら遊ぼうとでもしているような、そんな咲き方にあるように思えるのです……こんな説明の仕方でわかっていただけるでしょうか。
 いずれにしても、なにもかもありがとうございます、そして私のためにたくさん祈ってください。私のために、遊びのように、祈ってください……。

 「ビジネスライク」なヨーロッパの大部分の花に対して、「花開きながら遊ぼうとでもしているような」日本の花。対比の感受が独特だ。そのような花の捉え方が、「私のために、遊びのように、祈ってください」という《祈り》に重ねられていく。
 このとき須賀敦子は三十一歳。後に夫となるペッピーノ(ジュゼッペ・リッカ)と毎日のように手紙を交換していた。年譜を読むと「ミラノでペッピーノと祈りについて語り合う」という記述もある。イタリアのカトリック左派の拠点であったコルシア書店という場で二人は出会った。

 小さな花壇を見ているときに、この手紙の言葉が風景に重なってきた。花のような存在に向けた《祈り》があるとしたらそれはどのようなものか。ぼんやりと想いが巡るだけで、言葉はつながらない。そうこうしているうちに、志村正彦の歌詞が浮かんできた。


  蜃気楼… 蜃気楼…

  この素晴らしき世界に僕は踊らされている
  消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる

  おぼろげに見える彼方まで
  鮮やかな花を咲かせよう        (『蜃気楼』)


 「蜃気楼」がゆらめく世界の彼方まで「鮮やかな花を咲かせよう」とは、いうまでもなく《祈り》の言葉である。聴き手はそれを意識しないが、意識しないがゆえに、それはそのものとしてたどりつく。

2017年5月5日金曜日

『セレナーデ』と『夜汽車』 [志村正彦LN158]

 志村正彦・フジファブリック『セレナーデ』について調べようとしたが、雑誌でもインターネットでも関連記事が見つからない。一つだけ、ドラムを担当した城戸紘志が自身のwebで、「フジファブリックの10thシングルは珠玉のバラードです。セレナーデでは、いつかしてみたかった一人オーケストラに挑戦しました。」と述べていた。この「一人オーケストラ」が具体的に何を指すか分からないのが残念だがが、彼のドラムが『セレナーデ』の重要なアクセントになっていることは間違いない。
 歌詞の[3b-4c][6b-7c]のブロック、「セレナーデ」が「僕」を「眠りの森」へと誘い込む場面で、城戸の敲くリズムは催眠のような効果を果たしている。bcメロディの展開と反復を彼のドラムが支えていると言ってもよいだろう。


 あらためて『セレナーデ』を聴くと、最初から最後まで通奏音のように流れる虫の音や小川のせせらぎがいつどこで録音されたのか、という問いが生まれる。
 志村正彦は、高校の教室の音や高速道路の音を録音していたというエピソードがあるように、相当な録音マニアだったようだ。『セレナーデ』の自然の原音についての事実は知らないが、何となく、彼の故郷の地で録音されたものではないかなどと想像してしまう。僕の住む甲府でも、虫の音で季節の変化を感じ取ったり、時には虫の音の大きさに眠りが邪魔されたりすることがある。眠りにつこうとする意識が外の世界、自然の世界へと少しずつ連れ出されそうになる。そのうち虫の音にも慣れていき、眠りの世界に落ちていくのだが。

 虫の音や小川のせせらぎ、自然の奏でる通奏音。言葉のない世界の「鈴みたいに鳴いてる その歌」に誘われるように、「僕」は「口笛」を吹き、自らの声で歌い始める。その言葉は、[1a-2a-5a]そして[8c]に結実している。それは「僕」が「君」に伝えようとする「本当の事」なのだろう。ここで「本当の事」という言い回しをしたのは『夜汽車』という作品が念頭にあるからだ。
 『夜汽車』の歌詞の一部を引用する。志村作品の中で「眠りの森」という表現が出てくるのは、『夜汽車』と『セレナーデ』の二つだけである。


  話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう   (『夜汽車』) 


 夜汽車の車中で、「あなた」は「眠りの森」へ入り込む。歌の主体はその「あなた」に向かって、「そっと静かに」「本当の事」を言おうとする。でもおそらく、「眠りの森」の中にいる「あなた」に「本当の事」が伝わることはない。そもそも「本当の事」を「言おう」としても、それが声として語られることはないようにも思われる。「本当の事」とは何か。『夜汽車』の聴き手であれば、その問いを抱え続けるだろう。
 今回書き続けていくうちに、それに近い言葉があるとするのなら、『セレナーデ』のこの一節ではないだろうか、という想いが浮かんできた。それも「眠りの森」の夢の舞台で、そっと静かに語られたような気がする。「本当の事」は本当の想いであればあるほど、面と向かって相手には伝えられない。『セレナーデ』は夢の世界を設け、現実を隔てることで、「本当の事」を歌った。夢の中の言葉であるから、「君」に届くことはなく、消えてしまうのかもしれないが。「僕」と「君」の夢の記憶としていつまでも残り続ける。そう祈りたい。


  明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ      (『セレナーデ』)


2017年4月30日日曜日

『セレナーデ』ー言葉のない世界 [志村正彦LN157]

 一月ぶりに、志村正彦・フジファブリックの『セレナーデ』に戻りたい。
 はじめに、[3b-4c]と[6b-7c]の部分をもう一度引用する。


3b 木の葉揺らす風 その音を聞いてる
  眠りの森へと 迷い込むまで

4c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
  僕もそれに答えて 口笛を吹くよ

6b 鈴みたいに鳴いてる その歌を聞いてる
  眠りの森へと 迷い込みそう

7c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
  僕もそれに答えて 口笛吹く


 3b「迷い込むまで」から6b「迷い込みそう」へ、4c「口笛を吹くよ」から7c「口笛吹く」へと表現を変化させて、作者の志村正彦は、歌の主体「僕」が「眠りの森」へと迷い込むまでの時間や意識の変化を描いた。

 つぎに、[3b-4c]と[6b-7c]以外の部分、1a・2a・5aを[1a-2a-5a]という括りにして引いてみよう。


1a 眠くなんかないのに 今日という日がまた
  終わろうとしている さようなら

2a よそいきの服着て それもいつか捨てるよ
  いたずらになんだか 過ぎてゆく

5a 明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ


 [1a-2a-5a]には、1a「今日という日」の終わり、2a「いたずらになんだか過ぎていく」時、5a「明日」への祈り、というように、今日から明日へと流れていく時の層に、歌の主体「僕」の日々の想いが重ねられていく。
 二つに分けた[1a-2a-5a]と[3b-4c][6b-7c]とは、言葉もメロディも別の系列に属している。

 [3b-4c][6b-7c]の部分は、「眠りの森」「セレナーデ」「口笛」のモチーフから成る。歌の主体「僕」は「流れ出すセレナーデ」に答えて「口笛吹く」。ここからは想像だが、セレナーデに誘われるようにして、「僕」は眠りについたのではないだろうか。「僕」は夢の中でそのまま「セレナーデ」を聞いている。木の葉の音、風の音は夢の中の音へと変わっていく。この曲は冒頭から、虫の音、小川のせせらぎ、自然の音がずっと鳴り続けている。自然の奏でる音と楽曲の音とが混然一体となっていく。それらの音のすべてが眠りに誘い込むように。

 言葉では語られていない部分をさらに想像で補ってみる。
 「僕」の夢の中で、「僕」は「君」に会いに行く。「僕」と「君」との逢瀬がどのようなものであったか。すべては夢の中の出来事。起きたことも起こりつつあることもこれから起きることも夢から覚めた後には消えてしまう。

 夜明けが近づく。「僕」の夢が終わろうとしている。「セレナーデ」も終わろうとしている。夢からの覚醒の直前か、あるいは覚醒の瞬間か、「僕」は「君」に最後の言葉を告げようとする。


8c そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
  消えても 元通りになるだけなんだよ

 
 「お別れのセレナーデ」が響く。「僕」はどこに行くのだろう。夢の中の出来事であれば「消えても 元通りになる」。「僕」は「君」にそう言い聞かせる。夢の中の世界は消えても、元の世界はそのまま在り続ける。そのようなあたりまえの事実が残るのか。
 そのように解釈しても、理屈で捉えてみても、あたりまえすぎるこの最後のフレーズが作用する、あたりまえではない力を受け止めることはできない。「そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ/消えても 元通りになるだけなんだよ」は、このフレーズを聞き終わった後も、どこかでこだまし続ける。まるで現実と夢との狭間にこびりついて、意識と無意識との合間のような場所に固着して。

 そうこうしているうちに、「お別れのセレナーデ」は虫の音の高低や小川のせせらぎの重なる自然の音の群れに溶け込んでいく。聴き手もまた「眠りの森」へと迷い込んでいく。『セレナーデ』が言葉のある世界から言葉のない世界へと連れていく、かのように。

   (この項続く)

2017年4月26日水曜日

Jack Bruce『Theme For An Imaginary Western』

 前回、Felix Pappalardiが歌う『Theme For An Imaginary Western』の映像を紹介した。ネットで関連映像を探すと、Jack Bruceがピアノ弾き語りで歌うものが見つかった。しかも、「Felix Pappalardi、我が友に捧げる」と告げて歌い出している。





 1990年10月17日、ドイツのテレビ音楽番組『Rockpalast』のために、ケルンのLive Music Hallで収録されたようだ。もともとこの歌は1969年リリースのJack Bruceのソロ1stアルバム 『Songs for a Tailor 』で発表された。プロデューサーはFelix Pappalardi。そのような関係から、後にMountainの1stアルバム『Climbing!』にも収録されたのだろう。
 作曲はJack Bruce。作詞のPete Brownは1940年生まれの朗読詩人、作詞家、歌手。Bruce/BrownのコンビでCreamの代表作を作った。
 歌詞を引いてみたい。

  When the wagons leave the city
  For the forest, and further on
  Painted wagons of the morning
  Dusty roads where they have gone
  Sometimes traveling through the darkness
  Met the summer coming home
  Fallen faces by the wayside
  Looked as if they might have known
  Oh the sun was in their eyes
  And the desert that dries
  In the country towns
  Where the laughter sounds

  Oh the dancing and the singing
  Oh the music when they played
  Oh the fires that they started
  Oh the girls with no regret
  Sometimes they found it
  Sometimes they kept it
  Often lost it on the way
  Fought each other to possess it
  Sometimes died in sight of day

 『想像されたウェスタンのテーマ』という直訳の邦題が付けられているように、架空のの西部劇の物語のための主題歌なのだろう。風景の描写が巧みでまさしく想像力が喚起される。しかし、歌の中心軸はつかみにくい。最後の部分で繰り返される「it」が何を指すのか判然としないからだ。歌詞の中のモチーフというよりも、「Theme For An Imaginary Western」という「Theme」自体を指し示しているのだろうか。私たちが探し続けている「it」としか名付けようのない何かなのか。聴き手にゆだねられていると考えてよいのか。

 それでも最後の「Sometimes died in sight of day」に引きずられて勝手に想像してみると、歌詞の全体が死者の視線からの光景を描き出しているようにも感じられる。これはFelix Pappalardiの死という事実から逆に投影された解釈であるのだろうが、この歌詞の描く風景の底にはある種の儚さ、朧げな感じが横たわり、生き生きとした実感がないことからも来ている。もう見ることのできない夢の中の光景のようでもある。

 このライブでJack Bruceは、人生の旅の途中で倒れたロック音楽の開拓者Felix Pappalardiに捧げてこの『Theme For An Imaginary Western』を歌ったのは間違いない。
 Jack Bruceも2014年10月25日に71歳で亡くなった。肝臓の病気が原因のようだ。
 ブルース・ロックを基調にしながら、その定型を超えて、サウンド面でも歌詞の面でも新しい世界を創造した貢献者が、Jack Bruce、Pete Brown、そしてFelix Pappalardiだった。「ロックンロール」とは異なる「ロック」音楽の源を彼らは造った。