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2016年1月31日日曜日

ベルリンの富士山

 ベルリンには富士山がある。

 前回、ポツダム広場について書いて、そのことを想いだした。広場の中心地にある「ソニー・センター」の屋根が「富士山」の姿に似ていることが知られている。

 2000年の秋。ベルリン三日目の朝、僕と妻の二人はクーダム近くのホテルを出て、Uバーン(地下鉄)に乗り、ポツダム広場駅に向かった。駅から地上に上がると、まだまだ再開発中のモダンな街の光景が広がる。見渡すと、高層ビルの隙間からわずかに「富士山」に似た稜線が現れる。しかし近すぎて、全貌が見えない。たどり着いて下から眺めると、巨大な円錐形のテントで覆われているようにしか見えない。

 センターに入ると、映画館(ベルリン映画祭の会場にもなっている)やレストランなどの商業施設が並んでいる。当時は懐かしの「AIBO」ロボットや最新の「PlayStation 2」が展示されていた。ここにはソニーのヨーロッパ本社もあった。(ソニーの苦境により、すでにこのセンターは売却されてしまったそうだが)

 見るべきものは特にないので外へ出て、すぐ近くにある文化フォーラム内の絵画館の方へ歩いていく。その広場から振り返ると、ポツダム広場中心のビル街の合間から、本物の富士山でたとえると五合目くらいまでの富士山の形が綺麗に見えた。
 ベルリンの富士山にやっと出会うことができた。

 写真も撮ったのだが、鮮明ではない。ネットで探してみると、旅行会社JTBのサイトに、美しくライトアップされた画像があった。JTBの旅行情報の引用として、ここに添付させていただきたい。


JTBのHP(http://www.jtb.co.jp)から


 もう一つ、音楽との関わりで印象深い出来事があった。
 ポツダム広場近くの文化フォーラムはもとの西ベルリン地域にあり、ベルリンフィルハーモニーの拠点である不思議な形をした黄色の大きな建物、「カラヤン・サーカス」がある。ぶらぶら歩いているとホールの入り口が見えた。まだ午前中で辺りは閑散としていたが、ドアは開いているように見えた。思い切って入ることにした。もしかしたらホールだけでも見学できればと期待したからだ。

 中に入るとチケット売り場があった。その上の表示板を見ると、今日のコンサートに「満員」の表示が出ていないことに気づいた。おそるおそる、ドイツ語に英語が混じった訳の分からない言葉で尋ねてみると、1人ずつの別の席なら用意できるとのこと。演目は、マリス・ヤンソンス指揮のバルトーク『ヴァイオリン協奏曲第2番』、客演はギル・シャハム。僕はクラシック音楽はあまり聴かないのだが、ベルリンフィルを本拠地で聴ける機会はなかなかないので、購入することにした。

 チケットは真ん中の11列目とやや左側の3列目という素晴らしい席、しかも95マルク(4500円程度)と非常に安い。会員席のようなチケットがキャンセルとなり売り出されたのかもしれない。街を歩き回ると、時々、このような幸運に恵まれることもある。
 その後、さらに西の方に歩いて下り、バウハウス展示館を見ていったんホテルに帰り、ちょっと良い服に着替えてホールに再び向かった。

 僕にはバルトークの曲やベルリンフィルについて語る知識も能力もない。音楽そのものとホールの音響に圧倒されたと記すことができるだけだ。
 建物の五角形の形に合わせてアリーナ形式の座席が広がる。その中心にステージがある。これまで経験したことのない音の反射、残響だった。大げさでなく、四方八方から音の重厚な響きに包まれた。クラシック音楽の場合でも、音楽はそれが演奏される「場」と切り離せないということを痛感した。

 もう一つ音楽そのものからは離れるが、忘れられない光景があった。幕間の休憩時間、ホワイエに聴衆がたくさん集まってきた。「ベルリンのエスタブリッシュメント」という感じの中年の紳士淑女が綺麗に正装して、シャンパンを飲み歓談していた。映画の1シーンのようだった。僕たち二人の日本人はいかにも場違いな雰囲気だった。彼らと僕たちのとの間には「見えない壁」のようなものがあった。考えすぎなのかもしれないが。

 欧州では今でも(少なくともオーケストラの本拠地のホールでは)、クラシック音楽はある種の「階級」が支えているという実感を持った。そのことは日本ではあまり可視化されない。
 このような経験も旅のもたらす貴重な出来事だろう。

2016年1月24日日曜日

we could be heroes

 今朝の朝日新聞「世界はうたう:アンコール」は、デビッド・ボウイ「ヒーローズ」を取り上げていた。(2016年1月24日05時00分、デジタル版)

 1987年6月6日、ベルリンの壁近くにある国会議事堂前の広場で、ボウイの野外コンサートが開催された。単なる事実としてしか知らなかったこの日の様子を、この記事で初めて知ることができた。

 当日、スピーカーが壁の向こう側にも向けて設置され、東ベルリンの大勢の若者も壁の近くに集まってきたそうだ。その一人が「あの時、壁越しにデビッド・ボウイの歌声をはっきり聞いた」と語っていた。ベルリンの壁の西と東で、聴衆が壁と向き合うように立っていたことになる。ベルリンの壁崩壊の二年半ほど前の出来事だ。

 「ヒーローズ」自体は1977年にリリースされた。



 
 ベルリンと関わりのある部分の歌詞を引く。

   I, I can remember
   Standing, by the wall
   And the guns, shot above our heads
   And we kissed, as though nothing could fall
   And the shame, was on the other side
   Oh, we can beat them, forever and ever
   Then we could be heroes, just for one day

 引用したブロックの4行目まではおおまかに覚えていた。「the wall」「the guns」「kissed」、喚起力の強い言葉が並んでいる。この「we」は、プロデューサーのトニー・ヴィスコンティと当時の恋人であったドイツ女性の二人から着想を得ているそうだ。二人の逢瀬と「ベルリンの壁」がモチーフとなっている。

 5行目の「the shame, was on the other side」という一節は全く抜けていた。この「the other side」という言葉と、今朝の新聞記事が伝えた壁崩壊前の状況とが何となく結びついてしまう。「the other side」は何を指し示しているのか。具体的な状況としては、やはり、壁の向こう側と捉えることができるのか。あるいは違う背景があるのか。そもそも、「the shame」の意味が難しい。

 さらに、このブロックでは「we could be heroes」と歌われていることに、迂闊にも初めて気づいた。この歌ではすべて「we can be heroes」と繰り返されていると思いこんでいた。僕の拙い英語力でも、「can」と「could」ではニュアンスが異なることくらいは分かる。一般的には「could」の方が実現の可能性は低くなるだろう。(ここで明確に説明できる能力はないが)

 全体を通じて、「ベルリンの壁」という当時の現実、そしてその後起きた「ベルリンの壁」崩壊という(当時からすると未来の)出来事から遡行して考えてみると、「heroes」の意味が多義性をおびる。ある種の予言性すら感じとれる。

 この記事で、ドイツ外務省がツイッターに次のメッセージを出したことも知った。

Good-bye, David Bowie. You are now among Heroes. Thank you for helping to bring down the wall.
 「さよなら、デビッド・ボウイ。今やあなたは『ヒーローズ』の仲間入りだ。壁の崩壊に力を貸してくれてありがとう」

 「we could be heroes」が本当の現実となり、ボウイが「we」の一人になったということだろうか。それにしても、政府が公式ツイッターで言及するのには驚く。欧米の社会でロック音楽の持つ影響力にも。

 ルー・リードの『ベルリン』(1973年)やボウイのベルリン三部作に影響され、若い頃から、ベルリンは最も訪れてみたい外国の街だった。

 2000年、20世紀の終わりの年に初めてベルリンに行った。
 わずか三日間だったが、街を歩き回った。ベルリン三部作の拠点ハンザ・スタジオはポツダム広場近くにある。戦後、この広場は廃墟と化していたが、東西ドイツ統一後、ベルリンが再び首都になり、この地帯は新開発の中心地となった。
 すでに新築のモダンな高層ビルが林立していたが、広大な空地にはまだ巨大な建築クレーンがたくさん並んでいた。その光景をよく覚えている。


 2009年に再び訪れることができた。
 ポツダム広場周辺の開発はすでに終わり、街は完成していた。そのあたりは未来都市のような風貌に変わり、ベルリンの壁の痕跡など消えてしまっているかのようだった。

2016年1月12日火曜日

1978年、NHKホール、David Bowie。

 1978年12月12日夜、渋谷の公園通りは、David Bowieの通りと化していた。

 その夜、NHKホールで「Low and Heroes World Tour」が開かれた。日本ツアーの最終日だった。終了後、コンサートでBowieが被ったのと同じ帽子姿の女の子がたくさん公演通りを歩いていた。華やいだ高揚した気分にあの日の聴衆は満たされていた。何かこれまでとは次元の違う経験をしたという悦びが渦巻いていた。

 37年前のことだ。さすがに記憶が薄れている。ネットで調べると、当日のセットリストを記している方がいた。さらに、NHKが「ヤングミュージックショー」で放送した短縮版の1時間番組がyoutubeに「David Bowie - Tokyo 12-12-1978」として upされていることを知った。有り難い。(著作権の問題はあろうが、貴重な音楽の記録として皆に共有されるのは意義がある)
 あの日のライブの感触が少しよみがえってきた。

 僕は確か二階席後方の右側にいたはずだ。奥行きのあるホールゆえ、かなり前にステージがある。後方に蛍光管のようなものが縦に数十本置かれている。重厚で陰鬱なシンセサイザーの音がホールの地を這うように広がっていく。『Warszawa』。それまで経験したことのない音と演出に聴衆は静まりかえっていた。次は『Heroes』。歌物が始まり、聴衆も少しずつ日常的な感覚、ある種の落ち着きを取り戻してきた。 「we can be heroes, just for one day」の言葉が強く迫る。youtubeの映像を見ると、記憶よりテンポがゆったりしている。当日は見ることが当然不可能だったBowieのupの表情からはある種の風格すら感じる。その後、ラストに至るまでの展開はほとんど思い出せない。アンコールになると、白い水平帽に似た帽子をつけて登場。背後の蛍光管がフルに点灯し、眩い光に包まれたことを除いては。
 未だに、あれだけの高揚感を得たコンサートはない。大方は忘れてしまっても、その感触というか残像は我が身に残っている。
                                                  
  このツアーはその名が示すとおり、アルバム『Low』『Heroes』を中心としていた。その後リリースされた『Lodger』を含め、この三つはベルリン三部作と呼ばれ、Tony Visconti とBrian Eno の協力のもとに制作された。


 彼の創造の絶頂期に位置するこの三部作に関して、彼自身はどのように捉えていたのか。ネットで検索して、次のインタビューを見つけた。
Uncut Interviews David Bowie & Tony Visconti On Berlin,  March 2001)

  ベルリン三部作が「post-punk/ambient/electronica/world music」の礎石になったという問いかけに対して、David Bowieはこの三作品の重要性を認識した上で、次のように語っている。

 Tony, Brian and I created a powerful, anguished, sometimes euphoric language of sounds.

 一連の表現を「力強い、苦悶に満ちた、時には陶酔をもたらす音の言語」とでも訳せばよいのだろうか。単なる「sounds」ではなく「language of sounds」とあるので、「language」に力点があるのだろう。ある種の「言葉」であり、「様式」「方法」という意味合いもあるのかもしれない。この表現は、1978年12月12日、渋谷NHKホールで聴いた音と声の記憶にそのまま重なる。
 確かに、それは強力にうねり、広がる音だった。彼の声は、時には沈鬱さと高揚感を、苦悶と陶酔を、闇と光を、聴衆に与えていた。

 志村正彦作詞作曲、フジファブリック『茜色の夕日』がBowieの楽曲の雰囲気に通じると指摘された、と彼の日記にある。コードの一箇所が同じということだ(具体的には分からないが)。これは単なる部分的なものだろうが、志村正彦がDavid Bowieをどのように受けとめていたのかは関心がある。

 世界の、日本の、いわゆる「オルタナティヴ・ロック」の大きな源流が、Bowieの作品、特に『Low』『Heroes』『Lodger』というベルリン三部作にあることは間違いない。
 David Bowieがその69歳の生涯を閉じた。「ロック」はかなり前からだが、今、「オルタナティヴ・ロック」も、その輝きを失いつつある。
 

2016年1月10日日曜日

鈴木慶一「45周年記念ライブ」、年末の一日。

 昨年12月20日、東京メルパルクホールまで、鈴木慶一の「ミュージシャン生活45周年記念ライブ」を聴きにいった。

 午後五時過ぎ、地下鉄の芝公園駅から上ると、目の前に東京タワーが現れた。やわらかくて眩い光。綺麗だった。冬の夜の冷たい空気のせいか、逆に光があたたかくゆれているように見えた。こんなに間近で見るのは初めて。ここは東京のど真ん中。ライダーズには『東京一は日本一』という名のベスト盤があったな。少し華やいだ気分になって、会場のメルパルクホールに到着した。

 僕は鈴木慶一、ムーンライダーズのかなりのファンだった。「だった」と過去形で記したのはここ十数年ほとんどフォローしていなかったからだが、時々、BSで放送されたライブ映像などは見ていたので「だ」という現在形でもいいだろうか。生で聴くのは1996年の渋谷公会堂以来だった。あの年はムーンライダーズ20周年記念の年。すでにマニアックなファンが集まる「同窓会」のような雰囲気で、それはそれで楽しかった。

 出会いは1978年の『NOUVELLES VAGUES』だった。70年代末という時代において、古くさい言い方だが、洋楽(特に英国ニューウェイブ)の水準に達している日本語ロックとして、ムーンライダーズは抜きんでていた。LPジャケットの写真も気に入っていた。そのアルバムをCDで久しぶりに聴いてみた。懐かしすぎる。鈴木慶一の声も音も、記憶していたものよりずいぶんと明るく、さわやかでさえある。40年近く前の音源だが、あまり古びてはいない。サウンドに限定すれば、現在のフジファブリックのスタイルの源流の一つのように位置づけることもできる。

  『NOUVELLES VAGUES』には、その名が示すように、クロード・シャブロル『いとこ同志』を始めとする、仏ヌーヴェルヴァーグ映画などの多様な作品をモチーフとする楽曲が多かった。当時流行の「現代思想」(これも懐かしい言葉)の「記号論」の影響もあったのか、「引用」という手法を日本語ロックの世界に取り入れた先駆者だった。(その後、日本のオルタナティヴ・ロックでこの手法が安易に使われることもあったが。)
 独特の屈折のある歌詞。知的で洒落ているが、どこか外しているところ。憂いや翳りをおびたユーモア。高度な演奏力とアレンジ技術。それらの混合、時には混沌がムーンライダーズの魅力だった。

 座席に着き、辺りを見回すと、五十代六十代の男性が多い。鈴木慶一の音楽を聴き続けた同世代か少し上の世代の男たち。同じ時代を生き、僕と同様、同じようにくたびれてきた者たちが集う場だった。
 公演は、現在のバンド「Controversial Spark」、最新作録音のためのバンド「マージナル・タウン・クライヤーズ」、高橋幸宏とのユニット「THE BEATNIKS」、「ムーンライダーズ」、「はちみつぱい」と、45年の時をさかのぼる構成だった。途中でゲストの斉藤哲夫、PANTAも迎えた。

 ムーンライダーズの舞台。鈴木博文、白井良明、岡田徹のオリジナルメンバーの登場。かしぶち哲朗はもういない。武川雅寛も療養中でいない。でも、驚いたことに3曲目に「くじらさん」がステージに。この日のために準備してくれたのだろう。会場からは大喝采、「おかえり」という声も上がる。5人のライダーズとサポートドラムの矢部浩志によるすばらしい力演だった。
 ゲストのPANTAが『くれない埠頭』を歌った。ムーンライダーズの代表曲だが、慶一の弟、鈴木博文の作品。弟の作品をPANTAに歌わせたのは鈴木のオーガナイザー的資質を示している。

              吹きっさらしの 夕陽のドックに
              海はつながれて 風をみている

              行くあてもない 土曜のドライヴァー
              夢をみた日から きょうまで走った

         
              残したものも 残ったものも
              なにもないはずだ 夏は終った    (鈴木博文『くれない埠頭』)

   
 はちみつぱいの生演奏を聴いたのは初めてだった。オリジナルメンバーが全員集まったようだ。最初の曲の前奏なのか、インプロビゼーション風のサウンドは、70年代初頭の「ニューロック」の匂いが濃厚だった。メロディもリズムも音色ものびやかで、かなりサイケデリックなのは意外だった。
 『塀の上で』と『煙草路地』が嬉しかった。この二つの歌が聴けただけでも来た甲斐があった。

            誘導灯が秋波くれて
              広告塔も空に投げキッス
              羽田から飛行機でロンドンへ
              ぼくの嘆きを持ってお嫁に行くんだね 今日は

  
              塀の上で 塀の上で
              ぼくは雨に流れみてただけさ     (鈴木慶一『塀の上で』)

    
 鈴木慶一の出身地は東京大田区の下町。鈴木兄弟は羽田近くの湾岸地域で育ったそうだ。「羽田」という地名。「塀の上」、「夕陽のドック」という風景。鈴木自身が「東京ディープサウス」と呼ぶ場が『塀の上で』『くれない埠頭』の舞台だ。京浜工業地帯の臨海部の吹き溜まりの感じが歌詞には濃厚にある。

 ライブの前、橋口亮輔監督の七年ぶりの新作『恋人たち』を見た。
 橋口亮輔は最も敬愛する監督だ。新作を映画館で必ず見たいという気にさせる監督は他にない。たまたまキネカ大森で上映中だったので、大森まで出かけた。
 映画を見ている最中に気づいたのだが、主人公アツシが住み、働く場所は、大森や蒲田近くの街という設定だった。ついさっき大森駅近くで見たのと似た風景がスクリーンでいきなり映し出されたのには驚いた。予期しない偶然だった。

 アツシの仕事は湾岸地域の河川の橋梁を検査すること。ハンマーで打音して、その音に耳を澄まし、水郷都市でもある東京の土台の「ひび割れ」を探知している。戦後の東京の老朽化、そのような時代性を橋口監督は映画に織り込む。
  『恋人たち』は今各地で上映中なので、内容を語ることはやめよう。それでも一言印象を記すとしたら、ドキュメンタリー的手法を使ったフィクション映画というように括られるのだろうが、この作品は、「ドキュメンタリー」と「フィクション」、「事実」と「虚構」という二項対立を超えた「リアルなもの」、私たちの生の「真実」と名づけられるものを描いている。必見の映画だ。この作品については稿を改めて書いてみたい。

 帰りに京浜東北線に乗り、車窓から外を眺めていた。ある景色が呼び覚まされた。
 僕の伯父さんは山梨から上京し、大田区で小さな洋品店を営んでいた。蒲田から数駅向こうの下町の商店街だ。ほんとうに小さな頃だが、あの界隈の風景、商店街や路地や小さなビルの姿がほんのかすかに記憶にうずくまっている。
 昭和30年代の終わりか40年代の始めのことだろう。何かの用事で親に連れられていった。僕が東京に行った初めての記憶かもしれない。

 はちみつぱい『塀の上で』、ムーンライダーズ『くれない埠頭』。橋口亮輔『恋人たち』の舞台の街。伯父さんの店、商店街のかすかな残像。『NOUVELLES VAGUES』のLPジャケット、よく聴いた学生の頃の部屋。入場前の東京タワーの光、会場の同世代の聴衆。過去、現在、風景がゆるやかに旋回する。

 鈴木慶一の「45周年記念ライブ」は、僕という一人の聴き手にとっても、時をさかのぼる一日、年末の一日だった。

2016年1月8日金曜日

ライブハウスの原点の「場」を作った男の自伝

 今は地方都市でも、ライブハウスや時にライブを行うカフェなどがあり、音楽の実演を聴く「場」が日常の延長上にある。

 僕が上京して学生生活を始めた1977年にはすでに、東京のような大都市では各スポットごとに何軒かのライブハウスがあった。現在に比べればその数はとても少なかったが、情報誌の『ぴあ』や『シティロード』のライブ情報をチェックして、興味のあるバンドのライブに行くというスタイルが広がり始めた。音楽好きの「お上りさん」青年の一人である僕も、記憶をたどると、渋谷の屋根裏、新宿ルイード、吉祥寺の曼荼羅などに出かけた日々が思い浮かぶ。
 中でも強く印象に残っている場はやはり新宿ロフト。1980年前後の「東京ロッカーズ」の拠点でもあった。中でも「フリクション」のギグ(当時はそんな風に呼んでいた)。その音は、こちらの具合が悪くなるほど強烈だった。「場」と音楽の記憶は切り離せない。

 70年代前半、日本語ロックの創世記を代表するバンド、はっぴいえんど、はちみつぱいの拠点の「場」として、渋谷BYGがあった。
 僕が東京にいた頃にはすでにライブの公演はなかったので、その存在すら知らなかった。かなり後になってから、日本語ロックの重要な場であったことを知識として受けとったにすぎない。このblogで何度も言及や引用させていただいている音楽評論家の浜野サトル氏がレコード係として勤め、ジャズのライブの企画もしていたことも書籍を通じて知った。

 どのような場であったのか。これはやはり浜野氏自身の言葉を引いてみたい。「二五年目の聴き手へ」(浜野サトル『新都市音楽ノート』)という文に次の記述ある。

 『風街ろまん』が世に出た七一年は、はっぴいえんどのマネージャーであった石浦信三を中心につくられたマネージメント集団「風都市」が、東京・渋谷にできた店BYG(ビグ)を拠点に新しい活動を始めた年でもあった。喫茶店であると同時に玄米食のレストランでもあったBYGは地下にライブ・スペースをもっていて、彼らはそこで当時のおもだったフォーク&ロックのミュージシャンたちを総ざらいしたといっていいプログラムを組み、連日、ライブを提供しはじめたのである。
 BYGをライブハウスの先駆けにしたこの活動は、大きな影響力をもった。閑古鳥の鳴く日もないではなかったから、出演して得られる金銭はミュージシャンたちの生活の基盤にはとてもならなかっただろう。しかし、ある出演者の音楽の魅力が噂で広まると、その客席にはレコード産業を中心とした音楽関係者がずらり顔を並べた。やがて、そこから一人また一人とシンガー、ミュージシャンがピックアップされ、レコード・デビューを飾っていく。BYGの地下は、発足まもなくして音楽産業に新しいタレントを供給する装置となっていったのである。


 渋谷BYGが日本語ロックの始まりの場の一つであるとと共に、若者の「都市音楽」を「音楽産業」という新しいビジネスへ供給する場と化していくことの貴重な証言にもなっている。ここで触れられている「風都市」については、氏が編集に加わった『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』 (CDジャーナルムック、音楽出版社 、2004/4/9)に詳しく紹介されている。

 しかし、この書籍やネットで読める資料を読んでも、渋谷BYGそのものの歴史、特にそのライブスペースがどのように生まれ、どのような経緯で日本語ロックの重要な場となり、短い時間で終わりを迎えたのかはよく分からなかった。
 渋谷BYGは一種の謎のような場だったのだが、その謎が解けるblog『人生の心の引き出し ―サヨナラを残して―』が最近誕生した。(浜野氏の文「人生の心の引き出し」にその経緯が記されている)

 blogの説明に「新宿ピットイン、渋谷BYGを作った男、酒井五郎が遺した手記を公開していきます」とあるように、この手記の書き手であり主人公である一人称「おれ」は「酒井五郎」。入力者の浜野氏によって毎日更新されているが、彼の自伝、歴史物語はまだ始まったばかりだ。
 内容も文体もまさしく「ハードボイルド」調。連載小説を読むように、面白く痛快だ。(と書いたが、小説ではなくあくまで実話、自伝なのだが)
 そしてすでに、現実の軋みや時代の苦さのようなものも伝わってくる。

 日本のジャズそしてロックのライブハウスの原点にある「場」が、新宿ピットインと渋谷BYGだ。その二つの場を作った男の物語を読むのが日々の愉しみとなっている。
             

2016年1月5日火曜日

桜座という「場」

 志村正彦の歌を中心とするblogを設けているにも関わらず、正直に言うと、僕は日常の中でいつも音楽に接しているタイプの人間ではない。音楽、特に歌を聴く時間はそのことに集中したい。だから、生活の中の一部の時間を切り取り、音楽に向き合うことになる。それゆえ、ほとんど聴かない日が続くこともある。しかし、ライブについては、その場その時という「一回性」があるので、関心の高い音楽家については、できるかぎり時間を作って出かけるようにしている。山梨開催のものは特に。

 昨年の暮れ12月は、13日富士吉田リトルロボットでの佐々木健太郎&下岡晃、20日東京メルパルクホールでの鈴木慶一(45周年記念ライブ)、26日甲府CONVICTIONでのTRICERATOPS(“SHOUT TO THE STARLIGHT TOUR”追加公演)、29日甲府桜座での三上寛(「深沢七郎の世界観」ライブ)と半月ほどの間に、色々な場所に行った。中高年世代ゆえにけっこうきついものがあるが、「一回性」を逃したくないとこのような次第になる。(我ながら少しあきれてしまうが、行けるうちは行かなきゃね)いずれも様々なことを感じ、そして考えさせられた。(鈴木慶一、和田唱・TRICERATOPS、三上寛のことは後日書いてみたい)

 音楽を生で聴く場合、当然のことだが、それを聴く「場」が重要になる。
 甲府で暮らしている僕にとって、現在最も身近で大切な場が「桜座」だ。その桜座は2005年6月にオープンしたので、昨年、創立十周年を迎えた。

桜座・入口(2015年5月末撮影)

 桜座という場の魅力についてはこのblogで何度も触れてきた。オーナーの丹沢良治氏は、山梨の地場産業である貴金属業を営み、甲府で新しい街作りも進め、最近は甲府駅北口に「甲州夢小路」を展開している。
 桜座の企画や運営を担当しているのは事務局長の龍野治徳氏。地元のメディアで取り上げられたこともあったので、「新宿ピットイン」のマネージャーだったことはおぼろげに知っていたが、実際の経歴については知らなかった。ところが、昨年11月、浜野智氏のblog『毎日黄昏』(昨年末から休止中だがアーカイブを読むことはできる)の「桜座の怪物くん」を読んで、新宿というジャズの場における龍野氏の経歴や人柄の一端を知ることができた。浜野氏との交流の場面も愉快だ。

 ネットで調べてみた。90年代後半、富士見高原(長野にあるが、山梨との県境に近い)で夏に「八ヶ岳PARTY PARTY」というジャズフェスティバルが開催されていた。僕も二度ほど行った。富士見高原というあまり観光地化していない「場」であることがよかった。緑につつまれた清々しい場に、これまた商業主義的な感じがあまりない運営という組み合わせが、くつろげる雰囲気をかもしだしていた。

 好みの音楽家が多く出演し、特に森山威男(山梨の勝沼町生まれ、甲府で高校時代を過ごす)やDavid Murrayの演奏が印象深かった。(僕はDavid Murrayのサックスのファンだった。通り道を歩いていたら彼が佇んでいたので、握手してもらった。にこやかな顔、やわらかい手の感触をよく覚えている)その企画や運営を担当していたのも龍野氏のようだ。その頃から山梨に縁があったのだろうか。このジャズ・フェスティバルは確か99年を最後に(記憶が違っているかもしれないが)終わってしまい、すごく残念だった。

 この十年間で、桜座が甲府にもたらしたものはHPの「過去の公演」の記録を見ると一目瞭然だ。龍野治徳氏の力によるところが大きいのだろう。
 しかし残念なのは、地元の聴き手が少ないという現実だ。東京に近いということもあった関東圏からの客が多い。そのことはそのことでむしろ歓迎すべきなのだが、それに加えて山梨の方がたくさん来場するようになれば、より理想的な場となるだろう。

 今年は桜座でどんな出会いがあるのだろうか。