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2015年11月29日日曜日

フォークソング同好会の『銀河』

 私が勤めている高校にはフォークソング同好会があり、昨年からその顧問をしている。(顧問といっても、何もしない、何もできない「駄目」顧問なのだが)
 「フォークソング」という名を冠しているが、実質的には「軽音楽」「ロック」の同好会だ。最近の軽音楽部はどこも女子部員が多いそうだが、我が校も同じだ。30人くらい所属しているが、その大半が女子。実際に活動しているのは10人ほどで、3年生を中心とするバンドがメイン。構成は男子2人(ギター)女子4人(ギター、ベース、ボーカル)。ドラムやキーボードは不足していて、その都度組み合わせたり、助っ人を呼んだりしている。7月の学園祭でのライブが活動の中心だが、今年度から11月に、近くにある特別支援学校との音楽交流会に参加することになった。十数年続いている会だが、今年度から新しい企画にするということで、生徒会の方からフォークソング同好会に声がかかった。

 特別支援学校は、身体に障碍を持つなど、教育上特別の支援を必要とする児童・生徒のための学校である。勤務校では授業や課外活動を通じて近くの支援学校、盲学校との交流を進めている。教室で授業を一緒に受け、実際に交流することによって、生徒は大切なことを学び、社会のあり方について考えを深めていく。
 今回の音楽交流会も重要な会なのだが、この時期は、3年生の部員にとって就職試験や進学の推薦試験がようやく終わる頃で、なかなか練習する時間が取れない。一ヶ月ほどの短い期間で準備することになったが、部長から提出された曲目リストは、BUMP OF CHICKEN『ダンデライオン』、 KANA-BOON『ないものねだり』、そして何と!フジファブリック『銀河』だった。びっくりしたのだが、それ以上に、うれしかったのが正直なところだ。

 顧問が志村正彦・フジファブリックのファンなのは部員たちはいちおう知っている。年度の初めに、フジファブリックの曲をアコースティックギターでやってみないかと言ったことはあったが、そのことも忘れていた。それにしてもあの『銀河』?、リードギターのパートもリズムギターのパートもテンポが速くて大変そう。大丈夫かと心配になったが、3年生と2年生のギター弾きの男子がチャレンジすると聞いて納得した。この二人はけっこう技術があるからだ。
 練習場所に行って聞いてみると、やや不安なところがあるものの、リズムはキープできている。ソロのところも何とかなるかな。なるよな。それにしても難しい曲だ。二つのギターの絡み合いを間近で見て聞いて、フジファブリックの一ファンとして「なるほど」と勉強にもなった。『桜の季節』の節回しで「感動している!」と呟きたくなった。

 先週、支援学校との音楽交流会の日を迎えた。会場は支援学校の体育館。合唱部の美しいハーモニー、応援委員会による高等部3年生に向けての心あたたまるエールに続き、フォークソング同好会が登場した。2,3年生によるバンドと1年生バンドの演奏。やはり準備不足のせいで満足できるレベルにはなく、支援学校の生徒には申し訳ない気持ちでいっぱいになった。結局、『銀河』はリードギター・リズムギターの男子二人、ベースの女子によるギターアンサンブルになった。ミスもあったが、リズムはしっかりとしていたのが良かった。彼ら自身にとってよい経験となっただろう。

 支援学校からの要望があり、最後は『ちびまる子ちゃん』テーマ曲、B.B.クィーンズの『おどるポンポコリン』。支援学校の生徒たちは今年この曲をテーマソングにしてきたそうだ。フォークソング同好会三人の演奏をバックに、支援学校の生徒二人がサンタクロースの格好や動物の着ぐるみを着て踊る。うちの生徒一人が前に出てヒップホップダンスのようなものを始め、ぐるぐる回る。やがて、みんなで歌ったり踊ったりするようになった。笑顔があふれて、とても楽しい時を過ごすことができた。終わりがたいように、曲を三回繰り返した。音楽には人と人とをつなげる素晴らしい力がある。

 今回、このブログではほとんど触れたことのない学校や部活動に関わる話題を書いたのは、志村正彦が高校時代、「富士ファブリック」の原型となった同級生バンドで、富士吉田や近隣にある福祉施設や支援施設の場に出かけて演奏していたと聞いたことがあるからだ。これはバンドの自発的な活動だったようだ。彼の心にどのような理由があったのかは分からないが、高校時代の彼の「志」を読みとることができる。

 我がフォークソング同好会は機会を得て演奏したに過ぎないが、彼らなりの想いはあったにちがいない。志村正彦の「志」とは比べられないが、それでも、この冬の季節、彼の作詞作曲した『銀河』を支援学校で演奏した、そのことをここに記しておきたいと考えた。この歌の一節を引いてこの文を終えたい。


  U.F.Oの軌道に沿って流れるメロディーと
  夜空の果てまで向かおう                             (『銀河』)


2015年11月24日火曜日

ヴァンフォーレ甲府vs清水エスパルス「富士山ダービー」

 一昨日、11月22日、山梨中銀スタジアムに出かけた。Jリーグ2ndステージの最終節、ヴァンフォーレ甲府vs清水エスパルスの試合だった。
 
 バックスタンド自由席に座ると、色分けされた応援シートが配られていた。いつもは甲府のチーム色の赤と青だけなのだが、この日は黄や白がある。色で何かを表示するのだろうが、全く思いつかない。キックオフの時にやっと分かったのだが、その時にアウェイ側の背後にある大型スクリーンの映像を急いで撮った。   



開始時、アウェイ側ゴール裏。清水サポーターと大型スクリーン。


 かすかに映っていて不鮮明だが、色と形が分かるだろうか。
 中央にあるのは、そう、富士山だ。白い雪と青い地肌で描かれている。富士を挟んで黄色の字で甲府とある。

 そもそも、清水エスパルスは甲府にとって縁の深いチームだ。
 2000年代の初頭、VF甲府は成績低迷、少ない観客、累積赤字により存続が危ぶまれていた。その存続危機の頃、清水は「業務提携」という形で甲府を様々な面で支援し、選手や監督を派遣してくれた。特に2002年、清水のコーチ兼サテライト監督だった大木武氏(清水市出身でもある)が甲府の監督に就任したことは、現在までの甲府の歴史にとって最大の転機だった。3年連続最下位のチームを7位まで上げた。一度清水に戻り、2005年再就任。この年、J2の3位となり、柏との入れ替え戦に勝利し、J1への昇格を果たしたが、大木監督でなければ達成できなかっただろう。(志村正彦は日記に「甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。」と記している。このことは、志村正彦LN60(http://guukei.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html)で書いた)
 
 2006年のJ1参入後、甲府対清水の試合は、「富士山ダービー」と呼ばれるようになった。このダービー名は、富士山の「本拠地」同士という間柄からの命名だが、両チームの歴史や経緯も関係している。
 過去6年間、リーグ戦では甲府は一度も清水に勝てなかったが、今年の1stステージで初勝利。この結果が象徴しているように、清水は不調が続き、ついにJ2への降格が決まってしまった。

 この日は、「ホームタウン富士吉田市・富士河口湖町サンクスデー」だったので、両チームに『吉田のうどんセット』が贈られるなど、富士山ゆかりのイベントが多かったが、この日いったんJ1から去る「富士山」仲間の清水エスパルスへの激励の意味を込めて、あのような演出になったのかもしれない。ついでに願望というか妄想のようなことを書かせてもらうなら、試合前のBGMに、志村正彦・フジファブリックの曲を流してもらえたら最高なのだが。何がよいか。知名度なら『若者のすべて』か。グッと来すぎるかもしれないな。週末の試合だから『虹』もいい。曲調が軽快でテンポも速く盛りあがりそう。「響け!世界が揺れる!」「まわる!世界が笑う!」なんて歌詞もサッカーにぴったりだ。

終了後、ホーム側ゴール裏。甲府サポーターと選手・スタッフたち


 甲府の一サポーターとして、清水には「友愛」と共に今でも「恩義」を感じている。来年、清水がJ1復帰を決め、再び「富士山ダービー」が行われることを願う。

 今年の甲府についても振り返りたい。開幕後すぐに最下位に落ち、佐久間悟ゼネラルマネージャーがそのまま監督に就任することになった。佐久間監督は見事にチームを立て直し、J1残留を果たした。(勤め先の学校で、佐久間さんには何度か「山梨とサッカー、地域の活性化」というテーマで講演していただいている。氏は東京出身であるが、ヴァンフォーレ甲府を通じた山梨という「場」の活性化に対する情熱は本物だ。とかく「閉鎖的」と言われがちな山梨県民であるが、確かにそのような傾向がある。プロスポーツによる地域の活性化について、氏の「開明的」で真摯な姿勢から学ぶことは多い)

 甲府はJ1中で最も予算が少ないチームだ。人件費も低く、J1とJ2の中間の「J1.5」レベルの選手が多いのが正直なところだ。サッカー選手の年俸には資本主義と市場価値の論理が徹底している。しかし、そのような選手と監督やスタッフが懸命に努力し、苦しく厳しい闘いの中でここ三年、J1残留を果たしている。
たかがサッカーではあるが、このチームが大好きだ。 

2015年11月19日木曜日

Ryo Hamamoto - the fairest of the seasons、甲府・桜座。

 ここ数日、毎朝、桜の紅葉の変化を眺めていた。

 今朝は昨夜からの雨が上がり、近づく冬の清澄な光があふれていた。あの桜紅葉の樹は、ついにと言うべきなのだろうか、その葉をおおかた地面に落としていた。幾日か続いた冷たい雨に打たれて、葉としての命が尽きた。
 この場所、この桜の樹の下から、富士が望める。盆地のはるか向こう側ではあるが、降雪した白色の部分が増してきた。

 10月に甲府の桜座で開催された「Analogfish & mooolsと行く、巨大丸太転がしツアー2015 甲府 〜MARUTA FES!〜 巨大丸太がやって来た。ゴロ!ゴロ!ゴロ!」。
 三番目に登場したRyo Hamamoto(浜本亮)の映像がyoutubeにupされていることを最近知った。曲は『The Fairest Of The Seasons』。本人が許可した公開とあるので、ここでも紹介させていただく。  

            Ryo Hamamoto - the fairest of the seasons                             

 当日の雰囲気がよく再現されている。youtube音源という制約はあるが、桜座の独特の響きも何となく伝わってくる。MCにあるように、この曲はイントロからやり直した。最後もあんな風に終わり、小さな喝采をあびていた。
 Ryo Hamamotoの声やギターの音色はとても繊細で、透明な広がりがある。5歳から11歳までアメリカで暮らしていたそうで、発音も綺麗。しかし、ステージに上ることへの一種の衒いなのか、どこかもてあましているような感じもして、その対照が愉快だった。

 『The Fairest Of The Seasons』は、Nicoの歌で知られている。The Velvet Undergroundを離れてリリースしたソロ1stの『Chelsea Girl』に収録。ネットで調べると、「Written by Jackson Browne & Greg Copeland」とあった。あのJackson Browneの作とは全く知らなかった(Greg Copelandは彼の高校時代の友人で何曲か共作しているようだ)。70年代のアメリカやカナダのシンガーソングライターはリアルタイムで聴いていた世代なので、Jackson Browneにも親しんでいた。

 Nicoは3rdアルバム『The End...』を学生の頃よく聴いていた。うっすらとした記憶だが、西新宿の輸入レコード屋で手に入れた。ジャケット写真を気に入り、部屋の壁に立て掛けておいた。沈鬱そのものが結晶したようなNicoの声は、出口の見えないような状況にいた二十代前半の日々の感覚にとけこんでいた。

 映像に戻ろう。
 どこか聴き手を、そして歌う自分自身をも突き放しているような印象のあるNicoとは異なり、Ryo Hamamotoの歌はやわらかく聴衆を包み込む。アコースティックギターの美しい音色に、桜座という「箱」も共鳴していた。
 歌詞はこう終わる。

  It's now I know do I stay or do I go
  And it is finally I decide
  That I'll be leaving
  In the fairest of the seasons

 「In the fairest of the seasons」とは「季節の最も美しい時に」あるいは「最も美しい季節に」という意味なのか。それとも別の意味なのか、分からないが、この歌を聴きながら、朝の桜紅葉の光景を想い出した。
 あの桜にとって、季節の最も美しい時とはどのような瞬間だったのか、そんなことを考えた。

2015年11月11日水曜日

桜紅葉の頃 [志村正彦LN116]

  今朝、ある場所で桜の葉が紅葉している光景にしばし見とれていた。

 朝の光を浴び、その逆光を透過するようにして、赤と黄色の綴れ織りのような色彩が晴れた空に照り映えている。数本の並木なのだが、個体差があるのか、微妙に色が異なる。赤色に振れるもの、黄色に振れるもの。あざやかなもの、少しくすんでいるもの。「金木犀」の花の色とは随分違うが、これはこれで葉の色、「赤黄色の桜の葉」の風景をなしていた。
 秋から冬にかけての季節の澱のようなものが葉に沈むのか、幾分か、葉に黒い影がある。美しいが寂しげでもある。

 季語では「桜紅葉、さくらもみじ」と呼ぶそうだ。今は桜紅葉の頃なのか、そんな言葉と共に、あの歌を想い出していた。


  その町に くりだしてみるのもいい
  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃        ( 志村正彦 『桜の季節』 )


 この桜紅葉の光景が消え去ると、「桜が枯れた頃」に移り変わるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。

 この赤黄色の色彩が落葉と共に失われると、桜の葉が枯れた時が到来するのか。それとも、この季節の循環を数十年くりかえした後に、桜が枯れて死んだ時を迎えるのか。桜にどのような時が訪れたのか。
 志村正彦の眼差しの果てには、どのような光景が広がっていたのか。なぜ、「桜が枯れた頃」になると、「その町に くりだしてみるのもいい」のか。

 今朝の偶景が、いつものなぜをくりかえし問いかけていた。
 

2015年11月7日土曜日

「没後100年 五姓田義松-最後の天才-」展

 今日は、横浜まで「没後100年 五姓田義松-最後の天才-」(神奈川県立歴史博物館)を見にいってきた。昨年夏の圏央道開通後、土日祝日等に限り、甲府から横浜までの直通バスが始まった。渋滞があったので2時間半ほどかかったが、以前よりずいぶん近くなった感じだ。乗り換えがなく、運賃も安いので助かる。

 この画家のことは、10月に放送されたNHK日曜美術館「忘れられた天才 明治の洋画家・五姓田義松」で初めて知った。テレビ画面を通してだが、その異様なまでのリアリズムと技術の高さに驚嘆した。どうしても行きたくなり、何とか都合をつけて特別展へ。十数年ぶりの横浜というお上りさん状態だったが、この街の賑わいと華やかさはさらに増していた。

 美術については素人ゆえに、見当違いの感想かもしれないが、彼のリアリズムは何か通常のリアリズムを超えている。リアリズムの過剰さと美しさが高い次元で結びついている。その過剰さが何に由来して、その美がどこにつながっていったのか。そんなことを展示室で考えた。
 十代できわめて高い評価を受け、二十代で渡仏し、帰国後の三十代以降は肖像画家として一定の成功を収めたようだが、本来の恐るべき能力からすると不遇に終わったともいえる生涯だった。美術史の中でも正当な評価を受けたとは言えない。この特別展を契機に、「忘れられた天才」「最後の天才」という派手なフレーズが一人歩きしそうだが、その言葉は素直にそして十分にうなずけるように思われた。
 (明日、11月8日まで開催)

 これは私自身のオブセッションのようなものだが、このような評価の歴史を歩んだ芸術家を知ると、どうしても志村正彦のことを考えてしまう。「没後100年」という時の経過の中で、五姓田は本来のあるべき場所に帰還しつつあるのだろう。志村の場合はどのような歩みになるのだろうか。

 先ほど、ネットを通じて気づいたのだが、今日は『若者のすべて』が私たちの歌の歴史に登場した日だった。
 2007年11月7日リリース。8年の年月を越えて、今、この歌はとても沢山の聴き手を獲得しているが、この歌の受容をめぐって、考察しなければならないこともある。

2015年11月5日木曜日

『Baby Soda Pop』Analogfish

 桜座でのライブの後、Analogfishの新アルバム『Almost A Rainbow』をよく聴いている。
 1曲目『Baby Soda Pop』(作詞・佐々木健太郎、作曲・Analogfish)の素晴らしさ。山下達郎や10CC(『I'm Not in Love』)を想起したのだが、もっと心地よいではないか。
  「felicity」レーベルのOfficial Music Videoを紹介したい。



「Soda Pop」、サイダーのような飲み物を指すのだろうか。
声の粒々が、調和のとれたハーモニーに乗って、やわらかくはじけている。歌詞がまた素晴らしい。

  街が奏でた 流行りのラブソングに
  彼は呟く
  「そんな言葉で事足りるのが愛なら?」
  彼は続ける
  「僕は恋を知らないBoy」
  「そうさ、今も何も知らないBoy」

 佐々木健太郎は一人の話者になって、「彼」を通じて、物語のある場面を語る。登場する「Boy」「Girl」そして無数の「Boys & Girls」たちの背後にそっと身を隠している。「今も何も知らない」ことを愛しんでいる。

  だけど今、確かに
       
  Tululu 目と目が合った Boys & Girls
  Tululu 言葉も出ない Boys & Girls


 この「今、確かに」の瞬間が《Boy Meets Girl》の物語を転換させた。「Tululu」のコーラスが祝福する。「若者」である時を超えた二人が時をさかのぼっていく。
 熟練した作者と歌い手がここにいる。

2015年11月2日月曜日

今の子供たちの世代、僕らの世代。-『若者のすべて』19[志村正彦LN115]

 LN114で紹介した『若者のすべて』についてのインタビュー(「Talking Rock!」2008年2月号、文・吉川尚宏氏)で、志村正彦は作詞の過程で、「“ないかな/ないよな”という言葉」が出てきたという貴重な証言をしている。まずは無意識的なものとして現れてきたのだろうが、社会的な「意味」という意識的なモチーフとしても手応えを感じたことが想像される。再び、彼の言葉を引用する。

しかも同時に“ないかな/ないよな”という言葉が出てきて。ある意味、諦めの気持ちから入るサビというのは、今の子供たちの世代、あるいは僕らの世代もそう、今の社会的にそうと言えるかもしれないんだけど、非常にマッチしているんじゃないかなと思って“○○だぜ! オレはオレだぜ!”みたいなことを言うと、今の時代は、微妙だと思うんですよ。だけど、“ないかな/ない よな”という言葉から膨らませると、この曲は化けるかもしれない!

 志村は、「“ないかな/ないよな”という言葉」を「諦めの気持ちから入るサビ」として捉えている。その「諦め」は、「今の子供たちの世代」そして「僕らの世代」に 「非常にマッチしている」と考えたようだ。「今の社会的にそうと言えるかもしれない」とあるのは、若者や子供たちを中心に、ある種の「諦め」が、「今」という時代の社会的な「気分」として共有されていることを伝えている。

  「“○○だぜ! オレはオレだぜ!”」のように言うことが、「今の時代は、微妙だと思うんですよ」という発言は、そのような言い回しを歌詞から排除した志村らしい物言いだ。もちろん、「微妙だ」と思う方が多数だろうから、取り上げなくてもよい発言かもしれないが、少し理屈をつけて考えてみたい。
  「オレはオレ」「オレは○○だ」という言葉は、ゆるぎない自信や自己同一性に支えられている。自己を疑うことなく、あるいはその疑いを突きつめる ことなく、自己を肯定している。少なくとも、そのような姿勢を築こうとしている。あるいは、そのような自己を一つの像にして聴き手に伝えようとしている。

 言うまでもなく、志村正彦は異なる。「“○○だぜ! オレはオレだぜ!”」という言い方と対比すれば、「ない」という否定による「オレはオレでない」「オレは○○でない」というある種の自己否定、あるいは、「ない」という無化の作用による「オレはオレを奪われている」「オレは○○を失っている」という自己喪失が、彼自身の生涯を貫くモチーフであった。

 そのような否定と喪失のどちらにしろ、その両方であるにせよ、志村の場合、自己は根底からゆらいでいる。そのゆらぎによる不安が、彼の歌詞の基盤にある。物語や自然の景物の描写の背後には、それを見つめている志村のゆらぎや不安が時に露わになったり時に隠されたりしている。「 “ないかな/ないよな”という言葉」が意識に浮上するに従って、そのような言い方でしか表せない、自己のあり方、物語の行方、時代の輪郭が明らかになってきた。
 このような表現の過程は、志村正彦のきわめて個人的な「資質」からもたらされたものだろうが、優れた表現者は、意識的にも無意識的にも社会や時代の「症候」と共振し、それを歌詞のモチーフにすることがある。

 志村の言う「諦めの気持ち」に戻ろう。この「諦め」はどのようなものだろうか。「諦め」とは複雑な感情であり、複雑な過程である。ある現実を受け入れることができるのかどうか。受け入れようとする過程、その時間を過ごすことすらできずに、なすすべもなく、その現実の中に自らを位置づけること。ある種の「諦念」と共に、その現実を生きること。そのように捉えることができるだろうか。
 志村にとっての「諦め」の対象となった「現実」とは何か。それを見きわめたい。

 志村正彦は1980年に生まれた。90年代の初頭、ちょうど彼の十代最初の頃、「バブル経済」が崩壊し、日本の「失われた20年」(この年数は時間が経つにつれて、10年15年20年と増えていったようだが)が始まった。彼の亡くなる前年の2008年には、「百年に一度」と言われた世界的な金融危機が発生した。日本でも世界でも、経済的な停滞や混乱が次々と起こった時代である。彼の実人生も音楽家としての人生もこの「失われた時代」の影響を受けていることは確かだろう。

 2014年7月13日開催の「ロックの詩人 志村正彦展」のフォーラムでは、志村と同世代のファンである倉辺洋介氏の「志村正彦とLOST DECADES」という優れた発表があった。1stアルバム発表時 にフジファブリックに出会い、その作品に励まされてきた倉辺氏は、志村と同じ時代を生きた聴き手としての観点から、時代と歌詞との関係を考察した。氏のフォーラムでの発言の要旨を引用させていただく。(http://msforexh.blogspot.jp/2014/10/blog-post.html

志村君はバブル崩壊後に少年期を過ごし、高校卒業後上京した頃には音楽シーンは縮小する傾向にあり、メジャーデビューの頃には景気は少し持ち直したものの、決して右肩上がりではない、明日が今日よりいいとは限らない時代を生きてきました。そんな中、不安を抱き、ある種割り切った感覚を持ちながらも、悟ってしまっているのでもあきらめきっているのではなく、もがいている。そういう世代で共有する感覚があるという仮説のもとに志村君の歌詞を見ていこうというのがこの発表の試みです。

 この後、倉辺氏は作品に基づいて歌詞を具体的に引用しながら論を展開し、次のように結んでいる。

18歳で一人で上京し不安を抱き、下積みの苦労をしながらも、あきらめず、進もうとして紡いできた志村君の歌詞には、不安や焦燥を抱えながらもストイックに前向きにもがいているという特徴があり、だからこそ僕らは励まされたり背中を押されたり意志の強さを感じたりするのだと思います。

 倉辺氏は「世代で共有する感覚があるという仮説」を提示しているが、確かに「感覚」については、その世代の人間にしか分かりえないものがある。私のような世代の者にとってその感覚は想像するしかないが、おそらく、あの頃のフジファブリックを愛する若者たちは、失われた時代において、志村の「意志」の強さを、歌い手と聴き手との壁を越えて「共有」することによって、かけがえのない「場」を形成していったのだろう。

 志村正彦が表現者として生きた時代は「失われた時代」にそのまま重なる。
 「“ないかな/ない よな”という言葉」を「失われた時代」に投げ返し、反響させるようにして、『若者のすべて』の世界は創り上げられている。              

 
       (この項続く)       *11/3 題名変更