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2014年9月28日日曜日

HINTO 『シーズナル』

 
 9月23日、HINTOの渋谷CLUB QUATTRO公演。前半の最後は『シーズナル』。 
 伊東真一のギターが奏でるイントロ、何かが始まるような予感に満ちた旋律と音色だ。安部光広のベースと菱谷昌弘のドラムスによるビートも、安部コウセイの歌の言葉を導いていくようにゆったりと響いていく。 会場の皆がこの歌に聴き入っていた。やるせないような、いつでももうすでに、切なく懐かしいような夏。その雰囲気に包まれていた。

  誰かと出会って 誰かとは別れて
  めぐってめぐってくシーズン
  めぐってめぐってくシーズン
  めぐってめぐって
  少しだけ変わった


 会場でこのラストの言葉が聞こえたときに、一瞬、フジファブリック『若者のすべて』のラスト、志村正彦が歌う「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」という一節が想い浮かんできた。
 『若者のすべて』の「変わるかな」と『シーズナル』の「変わった」。「変わる」という動詞を媒介にして、この二つの歌がつながっているように感じてしまったのだ。不意打ちのようにその連想におそわれた。

   『若者のすべて』のラストシーンで、「最後の最後の花火が終わったら/僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」と結ばれる。「僕らは変わるかな」と、歌の主体「僕」は「僕ら」(それが誰を指すのかは明らかでないのだが)の未来に向けて、問いかけている。
 『シーズナル』において、歌の主体「僕」は、「僕」自身(あるいは作中の「君」を含めた「僕ら」かもしれないが)が「少しだけ変わった」と結んでいる。

  『シーズナル』と『若者のすべて』の間に、描かれる物語の内容でもモチーフの面でも、直接的、間接的な対応関係はないと考えられる。しかし、二つの歌のサビの部分にはある種の共通した雰囲気もある。
 『シーズナル』のサビは三回繰り返される。それぞれの末尾はこうだ。

  めぐってめぐって少しずつ変わって

  愛して憎んで少しだけわかって

  めぐってめぐって少しだけ変わった

 「少しずつ変わって」→「少しだけわかって」→「少しだけ変わった」と変化していく。「変わって」→「わかって」の「かわ」「わか」には音の戯れもある。「少しずつ」→「少しだけ」→「少しだけ」という展開。述語の終わり方は「て」→「て」→「た」。「て」という「余韻」のある接続助詞を使いながら、最後は「た」という助動詞で締めくくる。「変わった」と完結させるのが、『シーズナル』にふさわしい終わり方なのだろう。

 「めぐってめぐって」というシーズナル、季節の循環の中で、「僕」は「少しずつ 変わって」いく。そして、「愛して憎んで」という経験を経て、「僕」自身のことが「少しだけわかって」いく。若者の、というかより広く人間の、というべきなのだろう、ある種の成熟が描かれている、と書いてしまえばつまらない物語になってしまうかもしれないが、そのような「解釈」から離れてみても、『シーズナル』の言葉と楽曲は自然にさりげなく、聴き手に響いていく。「少しだけ変わった」というフレーズがそのまま素直に届いてくるのだ。

  『シーズナル』は、歌詞、楽曲、演奏共に完成度が非常に高い作品だ。独自の世界を持つ。それを前提とした上で、それでもなぜか、『シーズナル』のラストが『若者のすべて』のラストへの応答のように感じた。応答とは言っても、いわゆるアンサーソングではないが、どこかかすかに、この二つの歌はこだましているような気がした。

 安部コウセイの別ユニット堕落モーションFOLK2には、志村正彦の生と歌を凝縮して描く『夢の中の夢』というきわめて優れた作品がある(「LN66」参照)。歌の一節にこうある。

  そーいやさあれから 新しいバンド組んだよ
  相変わらず ひねくれているけど カッコイイんだぜ
  もし君が聴いてたら 何て言われたんだろうか 教えてよ


  新しいバンドとは「HINTO」のことであり、歌の主体は安部コウセイで、「君」は志村正彦であろう。安部は志村が聴いてたら「何て言われたんだろうか」と問いかけ、「教えてよ」と呼びかける。安部は志村と歌で対話している。「ひねくれている」者同士の友愛は続いているのだ。

 もちろん、何でも志村正彦と関係づけるのは、安部コウセイに対して、そして志村正彦に対しても失礼だろう。そのことは戒めねばならない。それでも、自分の連想や感覚には素直でありたい。
 私自身の無意識が、『若者のすべて』の「変わるかな」と『シーズナル』の「変わった」という言葉を連鎖させてしまった、とでも書くことができるだろうか。

 何をどのように聴きとるのか。それは結局、聴き手の自由だ、というよりも、聴き手の無意識の次元に起きてしまうことだ。それが聴き手の現実だろう。
 今日は『若者のすべて』と『シーズナル』を交互に繰り返し聴いた。そうするとなんだか、『若者のすべて』の「僕」が、数年の時を経て、「少しだけ変わった」と呟いている映像が浮かんでくるようだった。

 『シーズナル』のMVがyoutubeにある。(https://www.youtube.com/watch?v=YiA5hCBgaGI) 未見の人にはぜひご覧いただきたい。
 ラストシーンの海辺の光景。二人の女性(篠田光里と森康子が演じている)のヘッドフォンとサングラスをかけた姿、浜辺に一人で佇む安部コウセイらしき男の後姿、そしてクローズアップされた「履歴書」の言葉には微笑んでしまう。そして、こころがあたたまる。

2014年9月25日木曜日

HINTO、渋谷Quattroで。

 一昨日の9月23日夜、HINTOの渋谷CLUB QUATTRO公演“NERVOUS PARTY” release ONE-MAN TOUR「清楚なふりしてアメージング」に出かけた。以前から安部コウセイのライブを聴きたかった。急に行けることになり、チケットも間にあったのが幸いだった。

 新作『NERVOUS PARTY』を入手し、数日間、聴きこんだ。特に、7曲目『エネミー』の歌詞は鋭く深い。日本語のロックでこれほどの水準の言葉に出会うことは稀だ。安部コウセイはこういう切り口でこういう世界を描くことができるのだとその才能に驚く。ライブへの期待が高まった。

 渋谷のクアトロに行くのは十数年ぶり。BRNXD Xの来日ライブの時以来だ(パーシー・ジョーンズの驚異のフレッドレスベースが懐かしい)。開演20分位前に入ると会場には沢山のファン。整理番号は400番台だから、500人は超えていただろう。ホールの一番後ろの端っこに佇む。にわかHINTOファンのおじさんにはこういう場所が落ち着く。

 ライブは『アイノアト』で始まる。「愛の後」「愛の痕」という二重の意味を持つ題名。なかなか複雑なアイノウタだ。前半?(安部コウセイが「これからはアゲアゲで」と言った前まで)の最後は『シーズナル』。夏の寂しい、切ない感じを歌ったという意味のMC。美しいメロディとゆったりとしたリズムで「ねぇ皆ねぇ皆ねぇ皆 そろそろ/新しい季節が始まるみたいさ」と高らかに歌われる。

 ライブ本編の最後は『エネミー』。伊東真一のギターと安部光広のベースがイントロを刻み始めると、聴衆はこの歌と対峙するかのように、むしろ、静まりかえる。

  こんなモグラみたい眼で見つめても
  地図がぼやけて読めるわないだろ


 安部コウセイが歌い出す。サングラスが外されている。菱谷昌弘のドラムスが絡み合う。
  フロア内では静かにスローモーションのように踊る光景。
 静かな熱狂がその場を支配していく。

  私は10代の半ばから40年ほどの間、時代により密度の差はあるが、ロックのアルバムを聴き続け、そこそこライブにも出かけてきたが、これまで経験したことのないような、圧倒的な歌と演奏が現前していた。9月23日のHINTO『エネミー』は、語ることの難しいほどの圧倒的な「出来事」だった。

 m社[@m_sya_](https://twitter.com/m_sya_)の24日のツイートには「昨日のHINTO渋谷Quattro素晴らしかったです。エネミーヤバいですね。コウセイは攻めてるのが似合う。下岡」とあった。アナログフィッシュの下岡晃自身によるコメントだろう。あの場にいた人が皆、同じような想いを抱いたのは間違いない。

 安部コウセイ[@kouseiabe]のツイートで、本人はこう述べている。(https://twitter.com/kouseiabe

あとエネミーの時、光広も真くんもビッツも演奏の向こう側の表現をしていて、スゲェかっこよかった。演奏中にバンド内で爆発が起きてるのをビリビリ感じた。

 そうか、「爆発」が起きていたのか。確かに爆発のようだったが、熱い熱狂の爆発というよりも、心の中の堅くて厚い氷を、一瞬のうちに、歌と演奏で爆発させ破壊していくような、ものすごくクールな熱狂が広まっていく。演奏者の側から「演奏の向こう側の表現」という言葉が放たれたことも希有なことだろう。

 どのようにその光景を描写したらいいのだろうか。
 HINTOは言葉の向こう側に行こうとしていた。四人全員が、安部コウセイの書いた『エネミー』の研ぎ澄まされた言葉を受けとめて、そして、その言葉の「向こう側」に辿り着こうとしていたと、とりあえず描くことができるかもしれない。

  この日のライブ映像はyoutubeで配信される予定とのMCがあった。待ち遠しい。
 『エネミー』の言葉と演奏については、もっともっと考え抜かねばならない。何かを掴むことができたらできるだけはやく、この場で書いてみたい。

2014年9月22日月曜日

ラベルの再構成 [諸記]

 新しいラベルも加えて、ラベルを再構成しました。

 志村正彦・フジファブリック以外のアーティストの論も増えてきましたので、「アーティスト別ラベル」を新たに作り、「作品・テーマラベル」を二つに分割しました。「作品ラベル」には、藤谷怜子「ここはどこ?-物語を読む-」で書いた作品も含めました。

 現在までに、「偶景web」で単独で論じた志村正彦・フジファブリックの作品数は8曲しかありませんが、(「志村正彦ライナーノーツ」3曲、「ここはどこ?-物語を読む-」5曲)、部分的に触れたものもラベルに追加させていただきました。
 彼の作品総数は90数曲ですので、道程はまだまだ遠いです。

 

2014年9月21日日曜日

「ないかな」のフレーズについての試論-『若者のすべて』15 [志村正彦LN91]

  前回の「志村正彦LN91」では、『若者のすべて』の「純然たる音と言葉の響き、意味の断片の流れのようなもの」を聴き取ろうとして、「な」音とその連鎖について書いた。この音と声とその響きについて考え続けていたところ、落語家の立川談修氏の次のツィート(@tatekawadansyu )[https://twitter.com/tatekawadansyu]を目にした。‏
 
9月18日   
ナインティナインのオールナイトニッポンを聴いててたまたま流れた、フジファブリックの『若者のすべて』という曲に撃たれた。バンドの名前は知ってたけど曲を聴くのはたぶん初めて。7年前の曲で、しかもこれを歌ってる人は5年も前に享年29で夭折していることにビックリ。
9月18日   
サビ部分の「な行音」の羅列とその独特の発音が何とも言えず心地よく耳に残る。ファンのかたにとっては何を今さら、だろうけど。


 立川氏は「『な行音』の羅列とその独特の発音」を的確に指摘し、「何とも言えず心地よく耳に残る」ところに「撃たれた」ようだ。語りの言葉の専門家による発言は貴重だ。この呟きにも刺激されて、今回も、「ないかな」の一連のフレーズについて論じていきたい。「志村正彦LN 37」ですでに次のように記した。

純粋な響きの問題にも触れたい。「ないかな ないよな きっとね いないよな」の一節には、「な…」「な…」「…な…」の不在を強調する「な」の頭韻と、「…かな」「…よな」「…よな」の「な」の脚韻がある。「な」の頭韻には強く高い響き、「な」の脚韻には柔らかく低い響きがある。「な」の音の強さと柔らかさが、縦糸と横糸になって織り込まれているような、見事な音の織物になっている。

 「ないかな ないよな きっとね いないよな」は当然、「ないかな」「ないよな」「きっとね」「いないよな」の四つの最小単位に分かれる。その単位の構造を視覚化するために、以下のように記してみる。

   □□
    な□□
     □□□
   □□

 視覚化すると明瞭だが、「な」の頭韻の「な」と脚韻の「な」の二つがそれぞれの最小単位を挟み込んでいる(三つ目は脚韻がナ行の「ね」、四つ目は最初に別の音が入っているが)「な」の音で始まり「な」の音で終わる。
 四つの音がその倍数で展開していく。拍も同様に音の長短を調整しながら、四の倍数を刻んでいく。

 別宮貞徳氏の『日本語のリズム ─四拍子文化論』(ちくま学芸文庫)は、「4拍子」が日本語のリズムの基調にあることを指摘した。所謂「七五調」についても、言葉の切れ目や間を挿入することで、2音節1拍の8音節4拍子になる。俳句の五七五も短歌の五七五七七も、888、88888の8音(2音節4拍子)が内在律となる。この主張は、日本語のロックの音数律を考える際にも示唆に富む。別宮氏の表記方法に倣って、1拍2音節の切れ目に/を置き、長音や空白の箇所は○にして記述する。
 
   ない/か(な)/な○/○○
   ない/よ(な)/な○/○○
   きっ/と(ね)/ね○/○○
  いない/か(な)/な○/○○

 等時拍の中で、頭韻「な」は短く、脚韻「な」は長めに歌われている。頭韻の「強く高い響き」、脚韻の「柔らかく低い響き」につながっている。歌人の斎藤茂吉はナ行音について「柔かく、時に籠って、滞って響き」と述べているようだが、「ないかな」「ないよな」の脚韻の「な」には、「籠って、滞って」という響きの感覚がよく表れている。
 志村正彦の声には「やわらかく粘りつく」ような心地よさがあるとも言われているが、このようなフレーズやリズムの構造と声の響きが関係しているかもしれない。

 音から単語のレベルに移行しよう。
 聴き手からすると、最初の「な」音は、続く「い」音とすぐに結びついてしまう。自然にそのように聞こえてくる。「な」は、「ない」という一つの単語、自立語の形容詞、時枝誠記の文法論の「詞」の一部分であるから、これは自然なことだろう。
 それに対して、「かな」「よな」の方は、もともと「か」「な」「よ」「な」という終助詞、付属語が元になっている。意味ではなく、話し手の疑問や心配、念を押したり確かめたりする気持ちを込めるものだ。時枝文法では「辞」であり、対象(この歌詞の一節の場合、「ない」という不在の指示対象)に対する話者の主体的な捉え方そのものを示している。私見では、「辞」は主体の想いを音そのものとして響かせる力を持つ。

    ない←→かな
    ない←→よな
    きっとね
 いない←→よな

 抽象的な説明になってしまった。実際の歌詞、この「ないかな」のフレーズと続く一行を引用してみる。

  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

 この二行の「意味」の解釈を「志村正彦LN 37」では次のように試みた。

 すでに「ないかな」「ないよな」と「ない」が二つ重ねられる。しかし、いったい何が「ない」のか。それがわからないまま「きっとね」を挿んで、「いないよな」に続く。「いない」のならその主語は人、誰かということになる。続く行で、「会ったら言えるかな」とあるので、その「いない」と思う誰かは、歌の主体《僕》にとって出会ったら何かを言えるか困惑するような相手、普通考えるなら、恋人のような大切であった存在のことであろう。そして、その場面全体を「まぶた閉じて浮かべている」と歌っている。
  そうであるのなら、この一節をもとに戻ると、「ない」の主語は、誰か大切な人との再会するという出来事になるかもしれない。「再会する」ことが「ないかな」となり、「再会する」という意味の言葉が省かれていることになる。あるいは、「いること」が「ないかな」つまり「いないかな」の「い」が省かれた形とも考えられる。

 『若者のすべて』の一般的な解釈として示したものだ。この解釈を「詞」と「辞」という観点に接ぎ木してみる。
 恋人という対象の不在や再会という出来事の無や不可能性を示す「ない」という「詞」。その「ない」という判断についての疑問や心配、念を押したり確かめたりする心情を示す「かな」や「よな」という「辞」。この一連の歌詞では、「詞」と「辞」が、音節の区切りをもとに、対比的、対立的に表現されている。「ないかな ないよな きっとね いないよな」というフレーズには、不在や無についての自問自答にも似た形式がある。

 今回は、「ないかな ないよな きっとね いないよな」という一節に対して、韻、拍子、詞と辞、という三つの観点で迫ってみたが、論が混乱してきて整理できない。この原稿は没にしようとも思ったが、何かを書いてみなければ次のステップにいけない。「試論」ということでお許しいただきたい。
 様々な要素の絡み合いでこの魅力に富む「ないかな」の一連のフレーズは構造化されている。論のための論を書くつもりはないのだが、いつかもっと正確に解析した論を書きたいものだ。

    (この項続く)

2014年9月15日月曜日

『セレナーデ』の祈り

 今回の中欧旅行では、MP3プレーヤーでフジファブリックの音源を聴きながら、車窓の風景を見ていった。
 街から離れた郊外、地の緑や空の青が広がる風景では『陽炎 (acoustic version)』が調和していた。「陽炎がゆれている」という歌詞と共振するように、志村正彦の声はゆれながら空の彼方に広がっていく。

 ブダペスト、プラハ、ウィーンの街中では王宮、教会、市庁舎等の歴史的な建築物が並ぶ。その風景に最も合っていたのは、やはり、志村正彦の創った『セレナーデ』だった。やはり、と書いたのは、セレナーデは西洋音楽の形式や主題であり、そのまま曲名になっているからだ。クラシック音楽に無知な私には詳しいことは分からないが、男性が女性に愛する気持ちを捧げる歌曲で、小編成で演奏されるものだ。映画やドラマで、夜、男性が楽団を連れて愛する女性の家を訪れ、窓の下に立ち、セレナーデを奏でるというシーンを見たことがある人も多いだろう。(『花子とアン』にも、ふりかえれば哀しいシーンとしてその挿話があった)

 フジファブリックの『セレナーデ』にもそのような楽曲の起源がイメージとして浮かんでくる。
 欧州風の恋愛の歌曲に中欧の教会や塔や門、あまりにも「御誂え向き」の景観だとも言えるが、それでもやはり、志村正彦の歌う『セレナーデ』はこの風景に溶けこんでいた。中欧の諸都市は音楽との関わりが深く、特にウィーンは言うまでもなく音楽の都だ。有名なシューベルトのセレナーデもウィーンで作曲されたそうだ。

 プラハの夜、遅い夕食を終えた帰路、歩きながら『セレナーデ』を聴こうとした。
 闇の色が濃い。遠方にライトアップされたプラハ城がかすかに見える。ここまでは光が届かない。
 『セレナーデ』が始まる。耳もとでは、水のせせらぎ、虫の音。風に乗って、志村正彦の声が忍び込んでくる。『セレナーデ』を歌う声は限りなくやさしく、うるおいがある。

  眠くなんかないのに 今日という日がまた
  終わろうとしている さようなら


 歌詞を繰り返し聴き取る。
 日の変わる頃、深夜に近い夜の時か、一日が「終わろうとしている」。歌の主体「僕」は、「眠りの森」へ迷い込むまで、「木の葉揺らす風」の音を聞く。耳を澄ますと「流れ出すセレナーデ」に答えて、「僕」は「口笛を吹く」。
 「口笛」であるからには、そこには言葉は載せられない。自然の奏でるセレナーデに応答して、「僕」は言葉なきセレナーデを口ずさんでいる。そうであれば、次の歌詞の一節も、「君」という他者には届かない。言葉は「僕」の中でこだましている。僕から僕へと回帰してくる。

  明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ

                                          
 志村正彦のセレナーデは、単純な恋愛の歌ではない。「君」に向けた言葉であり、「僕」に向けられた言葉でもあるのだが、「君」と「僕」を包み込む、より大きな存在、他なるものに届けようとした歌だと受けとめることもできる。

 「明日」は「君」にとっての「幸せでありますように」と祈る。この祈りの深さ、このような文脈の中で祈りを歌う歌を他に知らない。そして、「それ」を「僕」に「分けてくれ」と願う。このような願いの切実さも他には知らない。「君」に対する祈りと「僕」に関する「願い」。この二つは分けられている。祈ることと願うことは異なる。(今の私にはこれ以上論じることができない。いつの日か「志村正彦LN」で『セレナーデ』論を書くまでの課題としたい)

 志村正彦の言葉と楽曲からは、祈りのようなものが伝わってくる。それを強く感じたのは、2012年12月24日、富士吉田で『若者のすべて』のチャイムを聴いたときだった。「単なる一人の聴き手にすぎない私のような者にとっても、あえて言葉にするのなら、『祈り』に近い何かであったと言える。命日に鳴ったチャイムは、あの場にいた誰もがそう感じていたように、鎮魂の響きを持っていた。西欧の教会のカリヨンにも似た音と空を見上げる皆の眼差しも、そのような想いにつながっていた」と「志村正彦LN 3」には書いた。
 この時の「祈り」は彼に対する私たちの祈りだった。それから後、彼の作品を繰り返し聴き、このノートを書くようになってからは、彼の歌に潜在する「祈り」とでも言うべき「想い」に気づくようになった。

 車中で様々なことを考えた。

 『セレナーデ』は、2007年11月、『若者のすべて』シングルCDのカップリング曲、「B面曲」としてリリースされた。このCDには『熊の惑星』も収録されている。(『fABBOX』の『シングルB面集 2004-2009』にもこの二曲が収められた)
 最近、『若者のすべて』と『セレナーデ』にはモチーフ的なつながりがあるような気がしてきた。『若者のすべて』に対する自らの応答として『セレナーデ』は生まれてきた。そのような視点で読むとどうなるか、今後の論に反映させたい。

 また、「眠りの森」という表現も注目される。この言葉は『夜汽車』にも登場するのだ。(志村正彦の全作品中、「眠りの森」という表現はこの二つの作品にしか見られない)「眠りの森へ行く」「あなた」に向けて、「夜汽車が峠を越える頃」「本当の事を言おう」とする歌の主体。しかし、「眠りの森」の中では言葉が届くはずはない。言葉は、『セレナーデ』と同様、僕の元へと戻っていく。同一の言葉を含む二つの作品を対比すると、これまで読みとれなかったモチーフが浮かび上がってくるだろう。このこともいつか書いてみたい。


フジファブリック『若者のすべて』CD ジャケット(『セレナーデ』収録)

 今回の旅行はほとんど準備せずにツアーにお任せだったが、志村正彦フォーラムで述べた「百年」という時、「百年後」「百年前」という観点で、色々なものを眺めることで、記憶に残る旅となった。
 1914年、第一次世界大戦、カフカ、シーレ、フロイトと、とても重要な出来事や人物が、「百年」という時間軸に整列してきた。最初から意図していたわけではないが、結果としてそうなった。

 『陽炎 (acoustic version)』と『セレナーデ』にも新たに出会った。この二つは、現在、私が最も好きな志村正彦の作品となっている。

 実を言うと、ここ半年の間、志村正彦展やフォーラムの活動、webの執筆でかなり消耗したこともあり、息抜きを求めて中欧に出かけることにした。少しの間、志村正彦からも離れようと思ったのだが、離れることなどできなくて、結局、彼と彼の作品のことを考える時間が少なくなかった。


[一部削除 2016.6.27] 

2014年9月11日木曜日

「な」と「ない」の連鎖、音と声の響き。-『若者のすべて』14 [志村正彦LN90]

 昨年の12回に及ぶ『若者のすべて』論は、物語として読むという方法で書かれている。「歩行」の系列と「花火」の系列という二つのモチーフの複合という物語を構成していった。繰り返しになるが、最初にそのことをふりかえりたい。

 志村正彦は、2007年12月の両国国技館ライブ『若者のすべて』のMCで、「センチメンタルになった日」「人を結果的に裏切ることになってしまった日」「嘘をついた日」「素直になった日」とか色々な日々のたびに「立ち止まっていろいろ考えていた」と述べている。
 歌にもそのことがよく現れている。初期の曲では、歌の主体が季節の景物や人間関係に起因する出来事に遭遇し、その場で立ち止まるという場面が多く描かれている。そのとき歌の主体は佇立する。しかし、その想いが言葉で語られることは少ない。

  しかし、そのあり方が「ちょっともったいないなあという気」がして、「BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたる」方法を、彼は見つける。「歩きながら悩んで、一生たぶん死ぬまで楽しく過ごした方がいい」ことに気づき、『若者のすべて』を作ったと述べている。
 両国での発言の「歩きながら」は「歩行」の系列に属し、文字通り、主体の歩みを表現している。「BGMとか鳴らしながら」「感傷にひたる」とあるが、「BGM」は主体を包み込む音楽であり、「感傷」とは主体の想像や思考である。『若者のすべて』では、この「感傷」は「花火」の系列、「最後の最後の花火」というモチーフとして結実している。

 『若者のすべて』を物語として分析すると、歌の主体が歩行する視点から自らが創造する物語を映画のように心のスクリーンに描くという枠組みが浮かび上がる。この歌では「最後の花火」の物語が上映されている。ただし、物語の全体は描かれない。余白が広がっている。聴き手はその余白を補い、自分自身で物語を上映していく。この余白をどう読んでいくかが、この歌の尽きない謎と魅力の源泉となっている。

 物語を心のスクリーンに描くのは、歌を「読む」そして歌を「描く」ことだ。しかし、私たちはいつも歌を読んだり描いたりしているわけではない。むしろ、歌を「聴く」という行為は、音をそのまま聴き、言葉をその流れのままに受け取ることだろう。
 その時、物語の全体は現れず、物語からこぼれ落ちる細部にさらされる。純然たる音と言葉の響き、意味の断片の流れのようなものがむしろ伝わってくる。

 物語を「読む」ことなく、「描く」ことなく、『若者のすべて』を耳を澄まして聴いてみる。
 金澤ダイスケが静かに美しく弾くピアノ音の反復。
 前奏からABメロまで持続するピアノ音を基調にして、リズムが刻まれる。
 志村正彦が何度も繰り返す「な」の音。彼の声の響きはゆるやかに変化していく。

 第一ブロック。「真夏[まつ]」の「な」音に始まり、「落ち着かいような」「今日はんだか」「『運命』んて」と「な」音が続く。
 サビに至ると、「今年もったな」「何年[んねん]経っても」「思い出してしまう」「いか いよ」「きっとね いないよ」「会ったら言えるか」と、「な」音はさらに繰り返される。
 第2ブロックには、「それなりにって」「とり戻したくって」があり、第3ブロックの終わり近くには「まいった まいった」「話すことに迷う」とあり、「僕らは変わるか」の「な」音で歌が閉じられていく。

 この「な」の音は、「い」という音につながり、「ない」という音と意味に連鎖していく。形容詞であれ、助動詞であれ、「ない」は、「無」や「否定」の意味や機能を持つ。
 精神分析家ジャック・ラカンの言葉を使うなら、「ない」というシニフィアンの連鎖が『若者のすべて』の言葉を編みこんでいる、と記すことができるだろうか。

  香山リカ氏は、この歌を聴いてると「ほかのほとんどのことがすーっと遠ざかって小さくなり、どうでもよくなってしまう」と呟いた。
 私の感覚では、「な」音の反復が、「ない」という言葉に連鎖し、何かを無化し否定する動きが、聴き手を何処か遠くに連れていってしまう。

 志村正彦の言葉と楽曲には、いつもどこかに、たとえ微かなものであっても、歌う主体や歌われる世界に対する「無」や「否定」の動きがある。『若者のすべて』にはとりわけその純粋な運動がある。何を無化し、何を否定しているのかは分からない。作者にとっても無意識的なものかもしれない。
 「な」と「ない」、その音と声の響きは私たちをどのような風景に連れて行こうとしているのだろか。

   (この項続く)

2014年9月7日日曜日

フロイトの肖像写真

 チェスキー・クルムロフから最後の滞在地ウィーンに入る。旧市街から遠いホテルだったのが残念だが仕方ない。近くなら街の散歩に出かけられる。バスで回るツアーは、高速道路とのアクセスがよい郊外や空港近くのホテルであることが多い。
 翌日、国立オペラ座の近くでバスを降りて、ほんの少し歩くと、精神分析の創始者ジークムント・フロイトの顔が、いきなり目に飛び込んできた。
 どうしてここにフロイトが?その一瞬、不意を打たれた驚きでわけがわからなくなった。

 そこに立ち止まり、後ずさりして辺りを眺めると、彼の肖像写真が壁面にプリントされていたことが分かった。建物には「WIEN TOURIST-INFO」とある。あの重厚な街には似合わない色合いと鉄製らしい壁に違和感を持ったが、帰国後調べると、改装工事のための仮設オフィスだった。仮設だからこそあのようなフロイト像がプリントされていたわけだ。


WIEN TOURIST-INFO仮設オフィスの壁面

 2000年のミレーニアムの年、ベルリンからウィーンまで半月ほどの間、列車で旅をする幸運に恵まれた。ウィーンでの第一の目的は、シークムント・フロイト博物館(http://www.freud-museum.at)を見学することだった。シュテファン大聖堂の近くのホテルに泊まり、リンク内の旧市街を抜けて、フロイト博物館まで歩いていった。途中でウィーン大学にあるフロイトの銅像に立ち寄ったが、それ以外に街にフロイトの像やモニュメントはなかったように思う。
 ウィーンのフロイト博物館は、実物資料は少ないのだが、展示パネルや映像資料が充実していて、半日ほどかけて丁寧に見学した。入口近くにあったユダヤ人亡命者を象徴するトランクと診察室跡から見た中庭の光景をよく覚えている。

 2014年、仮設の観光案内所のフロイト像。この写真は1914年の撮影らしい。1856年に生まれたフロイトはその年に58歳となった。精神分析家として円熟の時を迎え、その実践と理論を完成させようとしていた時代であった。人間の「無意識」を解明し続けたフロイト。愛する葉巻を持ち、眼光鋭い表情でこちらを眼差す。偶然、私はウィーンの街角で百年前のフロイト像と遭遇することになった。
 撮影から百年経つ今、観光客を迎える「顔」として、ウィーンの街の「象徴」として、フロイトがそこにいる。この偶景から色々と考えさせられた。


Sigmund Freud 1914年 (出典wikipedia)

 「無意識」と「性」の次元、それに絡み合う「言語」と「症状」、人々が覆い隠してきた問題に深く切り込んだフロイトは、当時のウィーンの大学や学会からは理解されずに、排斥の対象となった。ユダヤ人であるゆえに、あの膨大で独創的な業績にもかかわらず、大学教授への道は絶たれていた。
 彼は孤高の存在だった。精神分析に対する抵抗、そのすべてをフロイトは覚悟し、受容していた。彼の診察室に通った心を病んだ人や彼の教えに関心を持った少数の友人知人を除いて、ウィーンは決してフロイトを認めようとはしなかった。

 フロイト自身の言葉を読んでみよう。この肖像写真の頃に彼が書いたものを『フロイト著作集』から探してみると、ちょうど1914年発表の『精神分析運動史』で、彼は自分自身と精神分析の「宿命」について予言するようにこう語っている。(『フロイト著作集第十巻』所収)

その宿命を、私は次のように頭のなかで想像した。つまり、おそらく私はこの新しいやり方が治療の上で成果をおさめることによって、世俗的に身を保つことには成功するであろう。しかし、生存中には学問的に私は問題にされることはないだろう。二、三十年後に間違いなく誰か別の人間が、これと同じ事柄にぶつかるだろう。そして、今でこそ時代にそぐわないとして顧られないこの問題を認知させることをやりとげ、かくして私をいたしかたなく、恵まれなかった先駆者として祭り上げることになるであろうと。

 百年後の今日、この「宿命」の予言はほぼ的中したと言えるだろう。同じ論文でウィーンについてはこう述べている。

ヴィーンという街は、躍起になって八方手をつくし、精神分析の発生にヴィーンが係り合っているということを否定してもいる。他のどんな土地をとってみても、学者同士や知識層における敵意に満ちた溝が、精神分析家にとって痛いくらいに感じられるところはまさにこのヴィーン以外にはない。

 フロイトの評価はむしろ、ウィーンの外部から、イギリスやフランスやアメリカから、あるいは文学や芸術の分野から高まった。結局、ウィーンがフロイトを受け入れたのは彼の晩年だったが、1938年、ナチス・ドイツの侵攻により、亡命を余儀なくされた。彼はウィーンに再び戻ることなく、1939年に亡命先のロンドンで亡くなった。
 この軌跡は、この百年の精神分析の運動を象徴している。2014年の現在、ジークムント・フロイトが創始しジャック・ラカンに継承された精神分析の実践は、たえず「滅亡」との闘いの渦中にいる。(文学部の学生の頃から、私はフロイトとラカンの著書に親しみ、三十代後半から四十代前半にかけて精神分析そのものも学んだ。「志村正彦LN」にはその影響が色濃く出ているかもしれない)

 フロイトの出生地は当時のオーストリア帝国モラヴィア地方のフライベルク(現チェコ・プシーボル)である。3歳の時に一家はウィーンに移住した。だから、フロイト自身には故郷の記憶はないようだ。
 今回のツアーは南モラヴィアを通っていくルートだった。大草原で知られるところだが、確かに、どこまでも畑が続く緑と土の色が美しい風景だった。フロイトの生地はもっと北の方だが、フロイトの故郷に近い風景が見られたのが嬉しかった。
 2006年、出生地のプシーボルという小さな街にあるフロイトの生家を改築して、フロイト博物館(http://www.freudmuseum.cz)が造られた(交通はかなり不便なところにあるそうだが、いつか行ってみたい)。

 ロンドン郊外のハムステッドにも、フロイトの家を改装したフロイト博物館ロンドン(http://www.freud.org.uk)があり、ここは1997年に見学したことがある。(うっかりして休館日に行ってしまったのだが、日本から来たので何とか見せてほしいと無理なお願いをすると、見学させていただけた。有り難かった)
 亡命した歳にウィーンから持ってきた物(分析で使ったカウチやフロイト愛用品など)がたくさん展示されていて、圧倒された。

  フロイトの博物館は、生地のプシーボル、活動の中心地ウィーン、亡命先のロンドンと、三つ存在している。開館した年は、ウィーン1971年、ロンドン1986年、プシーボル2006年。十数年から二十年の間を開けて三つの館が造られていった。すべて、フロイトが住んだ家を改装、改築したものだ。
 このようなあり方が個人博物館・記念館の理想なのだろう。

        (この項続く)

2014年9月4日木曜日

エゴン・シーレの母の故郷

 プラハからウィーンへと戻る途中で、「チェスキー・クルムロフ」という世界遺産の街に寄った。この街については何も知らなかった。ヨーロッパの思想や文化については少しは知識があるが、歴史や地理については疎い。旅行前に調べると、13世紀に築かれた城を中心に18世紀まで発展した街で中世の美しい街並みが残されている、とあった。

 ガイドブックの頁をめくると、「エゴン・シーレ・アートセンター(EGON SCHIELE ART CENTRUM ČESKÝ KRUMLOV)」[http://www.schieleartcentrum.cz/]があることを知る。シーレの母親の出生地らしい。とうことは彼にとっては半ば故郷である場所。そこにあるアートセンター。自由時間がとれるならここに行きたいと漠然と考えていた。 

 エゴン・シーレは、1890年ウィーン近郊で生まれた。1910,11年頃、このチェスキー・クルムロフ(当時はドイツ風に「クルマウ」と呼ばれていた)に滞在して風景画を創作している。
 このエッセイで度々言及している今から百年前の1914年、彼は何をしていたのかというと、第一次世界大戦が勃発し、オーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されていたそうだ。当時は24歳、その4年後の1918年、第一次世界大戦が終わったが、まもなくスペイン風邪で亡くなった。28歳の短い生涯だった。

 旧市街の小さな広場から少し路地に入ると、「エゴン・シーレ・アートセンター」が見つかる。壁には見覚えのあるシーレのモノクローム写真を使ったポスターが十数枚貼られている。ロックのビートのように訴えかけている。何かを凝視しているがどこか虚ろなあの眼差し、右手と左手の指を組み合わせた独特のポーズ。「表現主義」的とも評されていた写真だ。
 このシーレ像を見たのは久しぶりだったが、こうしてポスターになっているのを見ると、ポスターという媒体によく合う。(ある意味では「アーティスト写真」の原型のようでもある。ふと、「ロックの詩人 志村正彦展」のポスターを十数枚どこかの壁面に飾ったらどのような雰囲気になるのか想像してしまった)

エゴン・シーレ・アートセンター入口近くの壁面

 私のような70年代にロックを聴きはじめた世代にとって、デビッド・ボウイを通じてエゴン・シーレを知ったというのが共通経験ではなかっただろうか。
   『Low』で始まるボウイのベルリン3部作。ブライアン・イーノやロバート・フリップとのコラボレート。クラフトワークなどジャーマンロックの影響。1977年発表の第2作『Heroes』のジャケット写真は鋤田正義によるもので、当時、一世を風靡した。ボウイはシーレやその「表現主義」に影響を受けたと言われていた。

 1979年に池袋の西武美術館で開催の「エゴン・シーレ展」は日本初の本格的な企画展で、ロックファンもたくさん押しかけた。大学生だった私も、まさしく「ex-press」、身体の奥底にあるものが表に突き抜けて現れ出てくるような画風に圧倒されたことをよく覚えている。極東の島国の若者にとって、ロック音楽やサブカルチャーを通じて、欧米の美術や文化への関心が広がり、理解も深まっていくという時代だった。
 思い出話をひとつ。1978年12月12日、NHKホールで開催のデビッド・ボウイの「Low and Heroes World Tour」は、私がこれまで見た欧米アーティストのライブの中でも最も印象に残るものだった。あの日の渋谷の公園通りは、ファンの娘がボウイを真似た帽子を被って街を歩き、祝祭の空間と化していた。(36年前の出来事だ。どれだけ時が経ったのか。36という数字を記していると、眩暈を覚える)

『Heroes』ジャケット

  「エゴン・シーレ・アートセンター」に入る。ビール醸造所を改築した三階建で、天井が高い。同じように工場を改築してできた甲府の桜座を少し思い出した。
 1階は現在アートの展示スペース、2階には過去のシーレ展のポスター展示やエッチングなど、3階には彼の実物資料、アトリエで使った椅子や机。モデルが着ていた衣装とその絵の写真。シーレの絵画は高騰していて、残念ながら、このセンターには本物の油彩画はないそうだ。絵画のコレクションの場合、そのような難しさがある。

 しかし、チェスキー・クルムロフを描いた絵の写真とそれを描いた場所38点が地図がグラフィックパネルになって展示されていた。絵画を制作した場所とその視点を一つひとつ調査していく地道な作業に基づいている。実物の絵画がなくても、このような方法で「エゴン・シーレとチェスキー・クルムロフ」というテーマを掘り下げていくことは素晴らしい。(例えば志村正彦の場合も、同級生がゆかりの場所のマップを作り、とても好評だ。音楽と美術は根本的に異なるが、このアートセンターの方法、作品とゆかりの場所をリンクさせることも有意義かもしれない)

 シーレがこの街をどのように描いていったのか。「czechtourism」のサイトでは、次のように説明されている。 (http://www.czechtourism.com/tourists/cultural-heritage/stories/praha/related/cesky-krumlov/?chapter=2

シーレは一人になって、新しいもの - 黒色の水、音を立ててしなる木々、厳かな教会などを目にし、湿った青緑色の谷間を見て心を洗い、新しいものを創造することを欲していました。チェスキー・クルムロフはしばしその隠れ家となり、彼の創作は新しいテーマを得たのです。シーレは旧市街の路地でモチーフを見出すと、これを周囲の丘、あるいは城の塔など、一風変わった視点から捉えて描きました。これらの作品のおかげで、私たちは現在も、彼が言うところの「青き川の町」の姿を、画家の目から眺めることができるのです。

 百年経った現在でも、シーレの目から母の故郷の風景を眺めることができる。百年後の志村正彦を考えている私たちにとっても示唆的な言葉だ。

チェスキー・クルムロフの旧市街

 帰国後調べると、シーレは百年前の20世紀初頭において、すでにこの町を「死の街」と形容していたそうだ。この街は、産業革命の波に取り残され、交通の便も悪く、19世紀になると没落していったようだ。第一次大戦、第2次大戦とナチス・ドイツ、その後の社会主義体制とドイツ系住民の追放など、歴史の荒波にもまれ、荒廃していった。1989年の「東欧民主化革命」以降、ようやく街は再生していった。

 百年を経て、様々な曲折を経て、「死の街」から「再生の街」「世界遺産の街」へと変容していったチェスキー・クルムロフ。私のように観光客として訪れた者の眼には、その時、限りなく美しい街の光景だけが刻まれたのだが、歴史の記憶もそこに重ね合わせなくてはならない。

    (この項続く)

2014年9月1日月曜日

「作られてはいけない音楽」という呟き-『若者のすべて』13 [志村正彦LN89]

 9月に入る。一日しか違わないが、8月31日という日付が「夏の終わり」を想わせるのに対して、9月1日になると「秋の始まり」を感じてしまう。今日は朝から雨模様、涼しく、長袖がほしくなる。「秋霖」と言えるのだろうか。秋を告げる長雨ではある。季節の感受性は、寒暖や光の強弱という自然な感覚に基づいてはいるが、「暦」の区切りや俳句の「季語」のような制度とも密接に関わっている。

 8月末の数日、『若者のすべて』がラジオやテレビで流れることが多かったようだ。25日夜のNHK「サラメシ」を見るともなく見ていると、『若者のすべて』がBGMで流れていた。この番組は昨年も『茜色の夕日』を流してくれた。志村正彦の声もフジファブリックのサウンドも、言葉によって描かれる確かな世界があるにも関わらず、主張するというよりゆるやかに空間に溶けこんでいく。BGMに適しているのかもしれない。
  7月末、FM富士でオンエアされた『若者のすべて』を偶々聴いた。テレビでもネットでもなく、ラジオから流れる音楽は何か特別の響きを持っているのは何故か。私のような世代の郷愁だろうか。ラジオはおそらく未だに音楽と一番関わりの深い媒体だからか。

 昨年夏に話題となったドラマ『SUMMER NUDE 』でも、物語の鍵となる『若者のすべて』はラジオから聞こえてくるという設定だった。それを契機に、作中の二人がこの歌の解釈について議論する場面が回想される。ラジオから流れてくるという偶然性がこのドラマを動かしていく力になっていた。
 「夏の終わり」の歌として、文字通りの風物詩として、この季節を代表する楽曲として、『若者のすべて』は今や百年後まで聴かれ続けるような勢いを持つ。沢山の聴き手がこの歌を想いだし、残そうとしている。

 昨年、この「志村正彦LN」で『若者のすべて』について12回ほど書いた。今回、その「13」として久しぶりに書くのは、精神科医で批評家でもある香山リカ氏の8月25日のツィート(https://twitter.com/rkayama)を二つ読んだからだ。

 90年代最初から半ばにかけて、「imago」という精神医学・精神分析関連の雑誌が青土社から発行されていた。ジャック・ラカンに関心があった私はほぼ毎号を読んでいて、連載されていた「自転車旅行主義-真夜中の精神医学」によって香山リカの存在を知った。時代が精神医学的な言説をますます求めるようになって、氏は「メディア」によく登場するようになった。メディアという「他者」の欲望を生きることで、香山リカ氏はその名の由来通り「香山リカ」というメディアとなった。
 今回の最初のツイートにこうある。

フジファブリックの「若者のすべて」を聴かないようにしてる。何日間か心がフワフワするから。今日ラジオから流れてきてカバーだったから聴いてしまった。…失敗だ、またやられた。この時期はよくかかるから油断しちゃいけないんだ。

 『若者のすべて』を「聴かないようにしてる」という「回避」は、精神分析で言うところの「症状」のようなものかもしれない。オリジナルではなくカバーでも「何日間か心がフワフワする」のは、志村正彦の創り出した世界、言葉や楽曲そのものが心に作用していることになる。「油断しちゃいけないんだ」には少し微笑んでしまったが、意外に本当のことなのだろう。続くツイートにはこうある。

フジファブリック「若者のすべて」聴いてるとほかのほとんどのことがすーっと遠ざかって小さくなり、どうでもよくなってしまう。ほかの音楽がじゃなくて、仕事、お金、友だち、恋愛、家族、景色とかなんでも。これは作られてはいけない音楽だったのではないか。

 「ほかのほとんどのことがすーっと遠ざかって小さくなり、どうでもよくなってしまう」という感覚からは何かが伝わってくる。こちら側にも「転移」してくるような感覚だ。
 「仕事、お金、友だち、恋愛、家族」は社会的な関係であり、その関係の結び目として、私たち一人ひとりはどうしようもなく存在している。そして、結び目をほどくことはなかなかできない。無理にほどこうとすると、かえってその結び目が強くなったり、少しほどけたと思っても元の木阿弥になったりする。結び目は強固なのだ。

  香山氏は『若者のすべて』によって「何日間か心がフワフワ」し、少なくともその間、結び目がほどけてしまうようだ。どうでもよくはないもの、あるいはどうしようもないものが、「どうでもよくなってしまう」。そのように作用するとしたら、その聴き手にとって『若者のすべて』は「ありえない」希有な作品となる。

  とにもかくにも「これは作られてはいけない音楽だったのではないか」という呟きは、きわめて批評的な言葉だ。逆説的ではあるが、『若者のすべて』に対する最高の評価であることは間違いない。志村正彦ならどう考えただろうか。

 香山リカ氏の『若者のすべて』論、志村正彦・フジファブリック論をもっと読んでみたいという欲望がわきあがる。 

         (この項続く)