2014年4月12日土曜日

「一人一人」の「手紙」 [志村正彦LN 77]

 四月に入り、新年度が始まった。忙しい日々を送っている人が多いだろうが、私も職場での係が変わり、ハードワークが続いている。そんな時ほど、1曲か2曲でいいので音楽を聴きたくなる。最近は『セレナーデ』や『ルーティーン』だ。心に染みいる。

 そのような日々の合間を縫うようにして、6日、甲府の県民文化ホールで開催の斉藤和義コンサートに出かけてきた。「志村正彦の友人や交流のあったアーティストが山梨でライブをする際には必ず行く」という原則を自分に課しているのだが、斉藤は「ずっと好きだった」歌い手なので、昨年末に先行予約でチケットを入手しておいた。

 パフォーマーとしての斉藤和義はとても愉快な人だ。彼は高校卒業後、甲府に住み、山梨学院大学に通っていた。甲府駅前のマックや石和温泉のホテルでのバイト話、愛宕山での内緒話など、ローカルな話題が炸裂した。甲府で暮らしていたときに弾き語りを始めたらしいので、音楽家としての原点がこの地にあると述べていた。(もっとも、「つまらない」街だとも言ったので、屈折した情があるのだろう)
 
  ベースは隅倉弘至。志村正彦が影響を受けた「初恋の嵐」のメンバーで、静岡出身のようだ。二人の間で富士山の見え方の話になり、甲府側から見える富士山は「チラリズムの富士」、静岡側から見えるのは「丸見えの富士」と斉藤が語ったのには、大いに笑った。甲府で暮らしたことがなければ、この言葉のユーモアは分からないだろうが。
 太宰治が『富岳百景』で「甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿[ほほづき]に似てゐた」と描いている。その「ホオズキの富士」以来の名言・迷言かもしれない。

 志村正彦は斉藤と共演した際に山梨に住んでいたことを知ると、すごく興味を示したらしい。
 斉藤和義も「フジフジ富士Q」で『地平線を越えて』『笑ってサヨナラ』を見事に歌いこなしていた。特に、『笑ってサヨナラ』は斉藤の持ち歌にしてもいいくらいの出来映えだった。MCで「志村君の歌、面倒くさい。メロは難しいは、ギターはヘンテコリンだは。なんかそういう性格だったんっでしょうかね」と語っていたが、彼らしい愛が込められている。

 妻の方は9日、新宿ロフトで開催の「メレンゲ/スキマスイッチ」ライブ(新宿ロフトの歌舞伎町移転15周年記念企画)を聴いてきた(私はさすがに仕事で行けなかった)。大変な盛況で、メレンゲのクボケンジもMCでいろいろと語ってくれたそうだ。新宿ロフトの樋口寛子さんが、このライブに関連して、スキマスイッチの常田真太郎氏と大橋卓弥氏にインタビューした記事が『Rooftop』に載っている。(http://rooftop.cc/interview/140401145415.php  )

その後、新宿ロフトが定期的に開催していた“LIVE LINXS”というイベントに出演して頂いた時は、フジファブリックと共演しています。

常田:その時にフジファブリックの志村君と仲良くなったんです。キーボードが前任の方で、ドラムは志村の幼馴染みでしたよね。そこで結構話をして情報を共有したりしました。

 スキマスイッチの二人の記憶の中にも、若き志村正彦が強く刻まれているのだろう。
 常田氏が言及しているのは、キーボードが田所幸子、ドラムが親友の渡辺隆之の頃のフジファブリック、『アラカルト』を制作したフジファブリックだ。
 2001年9月に結成され、同級生バンドの頃の「富士ファブリック」から「フジファブリック」と名前を変えて、2002年10月、インディーズ時代の1stアルバム『アラカルト』をロフトプロジェクトのSong-CRUXレーベルから発表、その年の12月に解散した。

 私はこの時代のフジファブリックのライブ映像を見せていただいたことがある。音楽に統一感があり、演奏技術もある水準に達していた。
 志村正彦の作る歌詞が優れているのは言うまでもないが、歌い手としても日本語の歌詞を楽曲に乗せる「リズム感」と「疾走感」がとても良い。サウンドには「静かで透明感のあるファンキー」な感覚が込められている。田所幸子のオルガンにも伸びやかな独特の味わいがある。特に、『アラカルト』収録の『茜色の夕日』のオルガンは秀逸だ。(MV『茜色の夕日 インディーズver』 がYouTubeにあるので、未見の方はご覧になってください)志村正彦のあまりに若くて直接的に響く声と言葉から、彼が音楽家としての出発点で何を求めていたのかが、よく伝わってくる。

  前回、THE BOOMの解散について書いた。そのことに触発されて、バンドの解散の持つ意味についてこの1週間考え続けた。
 志村正彦を視点の中心に据えると、三つのフジファブリックが存在している。

 ・「同級生バンド」時代の「富士ファブリック」

 ・インディーズ時代の「フジファブリック」(Song-CRUX在籍時とその前の時代)

 ・メジャー時代の「フジファブリック」(EMI在籍時)

 彼にとっては、この三つの各々が重要な価値を持っている。「富士ファブリック」と「インディーズ・フジファブリック」は「解散」した。(メンバー交代したと言うよりも「解散」という表現の方が的確だと私は考える)。その後、プロフェッショナルなロックバンドとして、志村正彦自身がプロデュースしたのが、2004年4月14日に『桜の季節』でデビューしたフジファブリックだ。歌詞も楽曲も独創的で演奏技術も高度なロックバンドの誕生だ。そのこと自体は極めて高く評価されるべきであり、祝福されるべきだ。  だが反面、志村正彦が失ったものも確実にあることは記しておかねばならない。そのことを彼は何度か語っている。このことは稿を改めて、「志村正彦ライナーノーツ」に書いてみたい。

 最後にぜひ紹介したい言葉がある。今朝、「山梨日日新聞」に「フジファブ志村 再び」と題して、沢登雄太記者による13日の上映会についての記事が掲載されていた。6年前の都内での取材の際、志村正彦が「東京にいながら富士吉田を思って作った楽曲を故郷で披露できるのが楽しみだと、しきりに語っていた」という事実を伝えている。
 沢登記者は、あの『茜色の夕日』のシーンについて、「感情がそのまま旋律に乗った歌声は、人間的なロックサウンドを生み出した」と捉え、会場のホールはリニューアルされたが、「ただ、変わらないものもある。一人一人が受け止めた楽曲と、胸に刻まれた志村正彦-」と結んでいる。志村正彦を丁寧に取材し続けた記者としての深い想いが込められた言葉だ。

 明日、13日午後1時半から、「ふじさんホール」で「フジファブリック Live at 富士五湖文化センター 上映會」が行われる。沢登記者の言うように、あの場に集う「一人一人」がどのように、志村正彦在籍時のフジファブリックの音楽を受け止めるのだろうか、その胸に刻みのだろうか。

  oh ならば愛をこめて
  

     so 手紙をしたためよう      (『桜の季節』)

 富士吉田では桜も咲き始めた。
 私たち聴き手は一人一人、志村正彦への「手紙」を心の中に刻み込むだろう。

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