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2014年4月27日日曜日

『FAB BOX II』の重み-4/13上映會3 [志村正彦LN 80]

 上映會から2週間が経つ。16日には『FAB BOX II』が無事発売され、予約した分が我が家にも届けられた。無事、何事もなく、とあえて書いたのは、この作品がリリースされることを祈るような気持ちで待っていたからだ。すでに13日の上映會の展示物として見てはいたのだが、パッケージを手にするまで、ほんとうにこの作品が誕生したことが実感できなかった。

 このBOXセットには予想以上の重みがあった。これは、2006年12月25日の渋谷公会堂、2008年5月31日の富士五湖文化センター、そのときからすでに7年半、6年近くが過ぎ去った「時」が蓄積された重みのような気がする。ファンや関係者、富士吉田の人々、志村正彦の御友人や御家族がずっと待っていた重みでもある。そして誰よりも、志村正彦その人が待ち望んでいた作品だろう。

 柴宮夏希さんのデザインが秀逸だ。EMI制作担当の今村圭介氏が「宝箱みたい」と形容した「箱」は確かに、何が入っているのか、わくわくさせるような質感を持つ。開けたいような、まだしばらく開けたくないような気持ちになるが、思い切ってシールを開封する。「FAB」の字が切り抜かれた大きな「帯」の裏側には、LIVE DVD×2+PHOTO BOOK〈100p〉×2+ GOODS×2、と簡潔に媒体等が記されている。すべてが×2だ。

 箱のイラスト。図柄と文字が、まるで楽器が鳴り、音が混ざりあっているようで面白い。白の地に黒の線、モノトーンの世界が不思議に合っている。インディーズの頃から志村と関わりが深く、デザインについても語り合ったという柴宮さんならではの優れたデザインだ。
 箱の底側には「SiNCE:2000」の文字。2000年は、「富士ファブリック」結成の年。渡辺隆之・渡辺平蔵・小俣梓司と共に4人で同級生バンドを作った。それから数えると結成14年。そんなことも改めて伝えてくれる。

 箱を開けると、表紙の裏側には茜色が広がる。扉の一枚紙の地も、DVDの表紙も、富士五湖文化センターのPHOTO BOOKの表紙裏も、すべて茜色の世界。この色調が、明るすぎず渋すぎず、強すぎず弱すぎず、素晴らしい色合いとなっている。今村氏が「所謂”色校”という途中段階で、ここから更に微調整を重ねていく」と述べていたのが頷ける。
  柴宮さんは制作の依頼を受けた後、あらためて富士吉田を訪れて、風景と光と色に触れて、デザインを構想されたそうだ。

 『FAB BOX II』パッケージ全体の基調色の「白」と「茜色」のハーモニーには、「和」と「季節」と「時」の感覚が複合されていて、日本の伝統工芸品のような味わいがある。 当日の会場で飾られていたポスターにもその感覚が上手に表現されていた。
 『Live at 富士五湖文化センター』通常版のジャケットをもとに、茜色の空を背景に白い富士山が浮かび上がり、富士吉田の街並みが手書きで細かくそしてやわらかく描かれている。フジファブリック、志村正彦を象徴しているデザインだ。浮世絵のような簡潔な美と白色と茜色の完璧な色調。写真が一切使われていないのもよい。このポスターは上映會限定で印刷されたもののようだが、せめて、あのフライヤー版でもいいので、これからでも配布していただけないだろうか。部屋で飾っておきたいと思われた方も多いのではないだろうか。

 『Live at 富士五湖文化センター』DVDは、昨日初めて、最初から最後まで2時間を通して鑑賞した。4月13日の当日は、色々な想いが錯綜してきて、映像を冷静に追えたわけではなかった。(というのは表向きの書き方で、正直言うと、時折涙をこらえきれなくなって、画面をたどりきれなかった) それ故、空白部をこのDVDで補いながら、書き進めていきたい。

 液晶テレビで再確認しても、画質はあまり良くない。収録時の制約があったのだろう。この点について、レコーディングエンジニアの高山徹が述べた言葉がナタリー(http://natalie.mu/music/pp/fujifabric02)で紹介されている。EMIの制作グループは、「古いテープに記録された映像をもう一度リマスタリングして色や画質を調整し直した」そうだ。そうであるならばむしろ、現状のレベルになったことを感謝すべきなのだろう。
  また、音については「その場でミックスした2ch分の素材」しか残っていなかったそうだ。高山氏は、「志村日記」にもよく登場する山梨県出身のエンジニア上條氏について触れて、次の制作過程を教えてくれた。

 上條雄次くんっていう、初期の頃から携わってたエンジニアがかなりがんばって。ライブが行われた富士吉田の会場に行って、そこのホールの残響を測定し直す作業から入って。音を鳴らしてそれを録音して、それをコンピューターに取り込んで解析するような、ほかじゃありえないようなことをいろいろやってます。

 サウンドエンジニアリングやコンピューターの技術が向上し、これまでは不可能だったことも実現できるようだ。最新のテクノロジーを使って、この作品の音質を高めようとした上條氏を始めとするスタッフの情熱と責任感のようなものが伝わる。
 この作業は、昨年の12月下旬、『茜色の夕日』のチャイムが放送された期間中にちょうど、会場を借り切って行われたと伺っている。
  富士吉田であのチャイムが鳴り響き、人々が志村正彦を想い出している時に、あのホールでは、2008年5月31日の志村正彦、フジファブリックを復活させるためのプロジェクトが着々と進行していた。

  今村圭介氏、柴宮夏希さん、上條雄次氏、その他のスタッフを含め、志村正彦を愛する人々のきめ細かい丁寧な作業によって、『FAB BOX II』は誕生した。このBOXセットの重みは、制作者側の想いと時が詰まっているからでもある。  (この項続く)

追伸
   はまりえ様[@ha_marie]、Eminenko様[@Eminenko]。ツイートで紹介していただき、ありがとうございます。励みになります。(私はツイッターをしていないので、お返事できませんので、この場を借りました。)なんとか書き続けていきたいです。

2014年4月19日土曜日

歩行の律動-4/13上映會2 [志村正彦LN 79]

 ふじさんホール、全体の中央やや左よりの座席に座る。スクリーンと近すぎず遠すぎずちょうど良い位置だ。このホールは座席を始め大幅に改装されたが、舞台は当時のままらしい。その舞台上の大型スクリーンには、プロジェクターで投影された映像。送り出しは通常のBD・DVDプレーヤーのようで、アップコンバートして解像度を上げているようには見受けられない。デジタルテレビの高画質が標準になってしまった時代では、この輪郭の甘さは残念だった。
 ただし、ややぼんやりした映像の質が、時の経過を告げているようで、これはこれでよいのかもしれないと、自らを納得させた。

 反対に、音響は専用のPAを入れているようで、予想以上の大音量。音の残響も計算されているようで、臨場感がある。低域についてもほぼ満足できるレベルだった。ロックのコンサートの場合、低域の音圧が重要。音に関しては、現実のライブ演奏に近い質が保てていたと言える。
 夢の中のようにややぼんやりした映像と、耳元に届き身体を揺らす充分な音量。視覚と聴覚のギャップのようなものにも、しばらくすると慣れてきた。

 オープニングの「大地讃頌」合唱を受け継ぐ形で、『ペダル』が始まる。画面の中と外の観客の拍手が重なる。『ペダル』は、この「志村正彦ライナーノーツ」で最初に論じた作品(LN12,13,14 http://guukei.blogspot.jp/2013/04/ln12_5.html)。思い入れのある歌詞だ。3rdアルバム『TEENAGER』の冒頭曲で、この「live at 富士五湖文化センター」でも、ライブ自体のスタートを告げる楽曲となっていた。

    平凡な日々にもちょっと好感を持って
  毎回の景色にだって 愛着が沸いた

 「平凡な日々」「毎回の景色」。富士吉田や東京での日々。再生映像と音響ではあるが、ホールという場の中で、800人の観客を前に、志村正彦の言葉がこだまする。

   あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ

 「消えないでよ 消えないでよ」の言葉がリアルに胸に響く。生涯、消えてしまうものを見つめ続け、消えてしまうものに対して消えないでよと呼び続けた志村正彦。この上映會を通して、通奏低音のように、「消えないでよ」のフレーズは鳴り響いている。
 この言葉は、私たち聴き手が祈りのように、彼に対して今も囁き続けている言葉でもあるのだが。そんなことを考えていると、感情の渦の中に自分が消えてしまいそうになる。 

 照明の光量が上がる。白い光の中、二十八歳の若々しい顔立ち。時々見せる、透き通るような眼差し、あどけないような表情、高いキーを歌う際のやや苦しげな様子。
 胸元が開いたU首のシャツ、その黒い地のシャツの図柄の一部、左右に走る斜めの線が一瞬、富士山の稜線の形に浮き上がる。ホールの舞台を踏みしめるように、歩きながらリズムを確かめる姿が印象深い。

 ポリープ手術前ということなのか、声の調子はあまりよくないが、聴き手に伝えようとする歌詞の解釈と意志の力によって、歌には確かな説得力がある。
 『ペダル』のbpmは志村の歩くテンポに合わせてある。加藤慎一、城戸紘志のリズムセクションに支えられ、金澤ダイスケ、山内総一郎の音色に彩りを与えられ、志村正彦の歩行のリズムが会場に溢れ出る。観客はフジファブリックのサウンドの律動に大きく包まれる。

  駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ

 彼は「いつまでも 追いつけないよ」と歌う。映像のフレームの中の彼は再現前している。しかし、私たちはいつまでもどこまでも追いつけないでいる。たどりつけないでいる。「消えないでよ」と祈る。しかし、ここで佇むしかない。 

 『ペダル』が終わる頃になると、観客の手拍子や拍手も静かになってくる。皆が画面に集中していく。2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時は次第に、2008年5月31日という一つの時に収斂していった。     (この項続く)

2014年4月13日日曜日

二つの時-4/13上映會1 [志村正彦LN78]

 
 『live at 富士五湖文化センター上映會』から甲府に帰ってきた。今日は、この日が終わる前に書きとどめたいことのみを短く記したい。

 上映が始まる。

 まなざしをスクリーンに置くと、2008年5月31日の会場、志村正彦が歌い、金澤、加藤、山内そして城戸が奏でる像とこちら側で拍手する観客の像が入ってくる。
 まなざしをスクリーンから離すと、2014年4月13日の観客が視界の中に入ってくる。私のまなざしのすぐ先には現実の観客、その向こう側には映像の中の観客。
 観客が二重になる。今まで経験したことのない不可思議な感覚にとらわれる。

  さらに、映像の中の拍手、今日の会場の拍手と混ざり合い、時を超えて、拍手がシンクロするように聞こえてくる。
 スクリーンのフレームの内側と外側が溶けて、2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時が同時に流れている。

  この不可思議な時間の感覚は、きわめて志村正彦らしい主題であることに、しばらくして気づく。
 2時間の間、スクリーンの中の志村正彦の歌と言葉を一つひとつ受け止めながら、この時間の感覚について考え続けた。その感覚は次第に変容もしていくのだが、そのことについては稿を改めて書きたい。

 上映された楽曲についても簡潔に触れたい。

 『茜色の夕日』とその前のMCについては以前にも触れたが、今日あの場で聴いたこと自体がひとつの「経験」として刻み込まれた。
 どの曲にも様々な想いを抱いた。
 ライブ映像は初めての『Chocolate Panic』はとても印象に残った。
 『桜の季節』は、この作品の数あるライブ映像の中でもベストテイクではないだろうか。桜の季節の富士吉田に、この歌は幸せにも遭遇した。
 ラストの『陽炎』。
 「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ」という声が聞こえてくると、わけのわからない情動に包まれた。感覚と思考と感情がぐるぐると旋回しだす。

 上映の前後に、このDVDと會の担当者であるEMI RECORDSの今村圭介氏の短いが心のこもった挨拶があった。「志村正彦をフジファブリックをよろしくお願いします」の言葉でこの会が締めくくられた。

   終了後、会場を出ると、昼には雲に隠れてしまった富士山がうっすらと浮かび上がっていた。
 曇天の薄灰色に溶けこむかのような、残雪の多い白色と灰色の富士の山。そのかそけき美しさがこの日によく似合っていた。     (この項続く)

2014年4月12日土曜日

「一人一人」の「手紙」 [志村正彦LN 77]

 四月に入り、新年度が始まった。忙しい日々を送っている人が多いだろうが、私も職場での係が変わり、ハードワークが続いている。そんな時ほど、1曲か2曲でいいので音楽を聴きたくなる。最近は『セレナーデ』や『ルーティーン』だ。心に染みいる。

 そのような日々の合間を縫うようにして、6日、甲府の県民文化ホールで開催の斉藤和義コンサートに出かけてきた。「志村正彦の友人や交流のあったアーティストが山梨でライブをする際には必ず行く」という原則を自分に課しているのだが、斉藤は「ずっと好きだった」歌い手なので、昨年末に先行予約でチケットを入手しておいた。

 パフォーマーとしての斉藤和義はとても愉快な人だ。彼は高校卒業後、甲府に住み、山梨学院大学に通っていた。甲府駅前のマックや石和温泉のホテルでのバイト話、愛宕山での内緒話など、ローカルな話題が炸裂した。甲府で暮らしていたときに弾き語りを始めたらしいので、音楽家としての原点がこの地にあると述べていた。(もっとも、「つまらない」街だとも言ったので、屈折した情があるのだろう)
 
  ベースは隅倉弘至。志村正彦が影響を受けた「初恋の嵐」のメンバーで、静岡出身のようだ。二人の間で富士山の見え方の話になり、甲府側から見える富士山は「チラリズムの富士」、静岡側から見えるのは「丸見えの富士」と斉藤が語ったのには、大いに笑った。甲府で暮らしたことがなければ、この言葉のユーモアは分からないだろうが。
 太宰治が『富岳百景』で「甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿[ほほづき]に似てゐた」と描いている。その「ホオズキの富士」以来の名言・迷言かもしれない。

 志村正彦は斉藤と共演した際に山梨に住んでいたことを知ると、すごく興味を示したらしい。
 斉藤和義も「フジフジ富士Q」で『地平線を越えて』『笑ってサヨナラ』を見事に歌いこなしていた。特に、『笑ってサヨナラ』は斉藤の持ち歌にしてもいいくらいの出来映えだった。MCで「志村君の歌、面倒くさい。メロは難しいは、ギターはヘンテコリンだは。なんかそういう性格だったんっでしょうかね」と語っていたが、彼らしい愛が込められている。

 妻の方は9日、新宿ロフトで開催の「メレンゲ/スキマスイッチ」ライブ(新宿ロフトの歌舞伎町移転15周年記念企画)を聴いてきた(私はさすがに仕事で行けなかった)。大変な盛況で、メレンゲのクボケンジもMCでいろいろと語ってくれたそうだ。新宿ロフトの樋口寛子さんが、このライブに関連して、スキマスイッチの常田真太郎氏と大橋卓弥氏にインタビューした記事が『Rooftop』に載っている。(http://rooftop.cc/interview/140401145415.php  )

その後、新宿ロフトが定期的に開催していた“LIVE LINXS”というイベントに出演して頂いた時は、フジファブリックと共演しています。

常田:その時にフジファブリックの志村君と仲良くなったんです。キーボードが前任の方で、ドラムは志村の幼馴染みでしたよね。そこで結構話をして情報を共有したりしました。

 スキマスイッチの二人の記憶の中にも、若き志村正彦が強く刻まれているのだろう。
 常田氏が言及しているのは、キーボードが田所幸子、ドラムが親友の渡辺隆之の頃のフジファブリック、『アラカルト』を制作したフジファブリックだ。
 2001年9月に結成され、同級生バンドの頃の「富士ファブリック」から「フジファブリック」と名前を変えて、2002年10月、インディーズ時代の1stアルバム『アラカルト』をロフトプロジェクトのSong-CRUXレーベルから発表、その年の12月に解散した。

 私はこの時代のフジファブリックのライブ映像を見せていただいたことがある。音楽に統一感があり、演奏技術もある水準に達していた。
 志村正彦の作る歌詞が優れているのは言うまでもないが、歌い手としても日本語の歌詞を楽曲に乗せる「リズム感」と「疾走感」がとても良い。サウンドには「静かで透明感のあるファンキー」な感覚が込められている。田所幸子のオルガンにも伸びやかな独特の味わいがある。特に、『アラカルト』収録の『茜色の夕日』のオルガンは秀逸だ。(MV『茜色の夕日 インディーズver』 がYouTubeにあるので、未見の方はご覧になってください)志村正彦のあまりに若くて直接的に響く声と言葉から、彼が音楽家としての出発点で何を求めていたのかが、よく伝わってくる。

  前回、THE BOOMの解散について書いた。そのことに触発されて、バンドの解散の持つ意味についてこの1週間考え続けた。
 志村正彦を視点の中心に据えると、三つのフジファブリックが存在している。

 ・「同級生バンド」時代の「富士ファブリック」

 ・インディーズ時代の「フジファブリック」(Song-CRUX在籍時とその前の時代)

 ・メジャー時代の「フジファブリック」(EMI在籍時)

 彼にとっては、この三つの各々が重要な価値を持っている。「富士ファブリック」と「インディーズ・フジファブリック」は「解散」した。(メンバー交代したと言うよりも「解散」という表現の方が的確だと私は考える)。その後、プロフェッショナルなロックバンドとして、志村正彦自身がプロデュースしたのが、2004年4月14日に『桜の季節』でデビューしたフジファブリックだ。歌詞も楽曲も独創的で演奏技術も高度なロックバンドの誕生だ。そのこと自体は極めて高く評価されるべきであり、祝福されるべきだ。  だが反面、志村正彦が失ったものも確実にあることは記しておかねばならない。そのことを彼は何度か語っている。このことは稿を改めて、「志村正彦ライナーノーツ」に書いてみたい。

 最後にぜひ紹介したい言葉がある。今朝、「山梨日日新聞」に「フジファブ志村 再び」と題して、沢登雄太記者による13日の上映会についての記事が掲載されていた。6年前の都内での取材の際、志村正彦が「東京にいながら富士吉田を思って作った楽曲を故郷で披露できるのが楽しみだと、しきりに語っていた」という事実を伝えている。
 沢登記者は、あの『茜色の夕日』のシーンについて、「感情がそのまま旋律に乗った歌声は、人間的なロックサウンドを生み出した」と捉え、会場のホールはリニューアルされたが、「ただ、変わらないものもある。一人一人が受け止めた楽曲と、胸に刻まれた志村正彦-」と結んでいる。志村正彦を丁寧に取材し続けた記者としての深い想いが込められた言葉だ。

 明日、13日午後1時半から、「ふじさんホール」で「フジファブリック Live at 富士五湖文化センター 上映會」が行われる。沢登記者の言うように、あの場に集う「一人一人」がどのように、志村正彦在籍時のフジファブリックの音楽を受け止めるのだろうか、その胸に刻みのだろうか。

  oh ならば愛をこめて
  

     so 手紙をしたためよう      (『桜の季節』)

 富士吉田では桜も咲き始めた。
 私たち聴き手は一人一人、志村正彦への「手紙」を心の中に刻み込むだろう。

2014年4月6日日曜日

THE BOOM、解散。

 
   前回、ザ・ブームの宮沢和史について触れたが、その翌日3月31日に、THE BOOM
解散という発表があった。86年の結成から28年が経ち、89年のデビューからは25周年という節目の年に解散を決めたようだ。この知らせに驚くと共にある感慨を覚えた。

 以前書いたように、1989年、風土記の丘で開かれた山梨初ライブに出かけた。それから90年代中頃までは、毎年のように甲府の県民文化ホールで開かれたコンサートに通った。アルバムで言えば、1st『A PEACETIME BOOM』[1989年]、2nd『サイレンのおひさま』[1989年]から4th『思春期』[1992年]にかけての初期のものだ。どれも質の高い作品だったが、特に3rd『JAPANESKA』[1990年]は、「JAPAN+SKA」というネーミングとコンセプトが素晴らしく、歌詞もサウンドも独創的で、日本語のロックの歴史に残る傑作アルバムだった。

 曲で言うと、彼らの代表曲となった『星のラブレター』『釣りに行こう』『中央線』『からたち野道』等は、故郷山梨の風景とも絡まり合い、私たちにとって記憶に残る歌であり続けている。『虹が出たなら』『気球に乗って』『子供らに花束を』等の深い問いかけを持つ歌、『ないないないの国』『なし』等のナンセンスでユーモアのある歌。80年代後半から90年代前半にかけてのいわゆる「バンドブーム」の時代で、宮沢和史は、ユニコーンの奥田民生と双璧をなす、たぐいまれな才能だった。奥田と共に、日本語のロックの歌詞にそれまでにない広がりや豊かさを与えた。

  宮沢和史には『詞人から詩人へ』という、彼の好きな近現代詩を朗読して紹介するCD付きの書物もある。ロックのフィールドの中でも最も近現代詩を読み込み、歌詞を創作している「詞人」であり「詩人」であった。(彼の歌詞については、この《偶景web》でいつか丁寧に論じてみたい)
 

  公式サイトの「ファンの皆様へ」という文には、「たくさんの、本当にたくさんの愛とぬくもりに包まれ、僕たちは日本一幸せなロックバンドでした」というメンバーの言葉がある。
 宮沢・小林・山川という甲府で生まれ育った同級生に、千葉出身の栃木氏が加わって結成されたこのバンドは、「同級生バンド」の色彩が強い。めまぐるしい変転を続ける音楽業界の中で、中断期間はあったにせよ、一度もメンバー交代がなく、『島唄』の大ヒットを始めとして幾つものヒット曲を出し、ファンにも恵まれた彼らは、確かに「日本一幸せなロックバンド」だったろう。解散を宣言する文で、このような言葉を使えること自体とても幸福なことだ。

 宮沢和史そしてギター小林孝至、ベース山川浩正は50歳近くになり、ドラム栃木孝夫は50歳を超えている。宮沢・小林・山川氏と同郷で、栃木氏と同世代の人間として、本当にご苦労さまでしたと心から述べたい。宮沢氏は頸椎症の療養中のようだ。何よりも健康を大切にしてほしい。(私の今の職場には、甲府南高校時代の宮沢和史の同級生が二人もいる。「MIYA」は高校生の頃から「男気」のあるやつだったらしい。甲府は小さい街なので、こういうことが割とある)

 最後に、公式サイトの「MOOBMENT CLUB スタッフ一同」の言葉もとても感動的なので紹介したい。

 THE BOOMというバンド名は、彼らの歌や音楽が一時のブームで終わらないように、という思いを込めて逆説的に名付けられたものです。「星のラブレター」の歌詞に、「年をとって命がつきて/星のかけらになっても/昨日聴かせた僕の歌/町中に流れてる」と記されているように、願わくは、彼らの歌たちが、たとえ詠み人知らずとなっても、いつまでも皆さんに愛していただき、 歌い継がれていきますように…。

 実は前回、偶然ではあるが、同じ箇所を引用して考えた際に、「年をとって命がつきて/星のかけらになっても」という言葉にある種の感銘を受けていたことを記しておきたい。
 二十五年前、この歌を初めて聴いたときにはこの言葉はそんなに印象に残らなかった。むしろ常套句のように感じていた。しかし、時の重みが歌の解釈を変えることがある。それは作者の意図を超えることもある。『星のラブレター』には、文字通りの「年」や「命」、そして「時」への想いが貫かれている。歌い手も聴き手も、年を重ねることで、歌の本来の意味があらわになってくる。

 何十年、何百年と時が経っても、「詠み人知らず」となっても、歌い継がれていくこと。それがすべての歌にとっての究極の願いだろう。