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2013年11月23日土曜日

アナログフィッシュ&モールス、甲府の桜座で。(志村正彦LN 58)


  17日夜、甲府の桜座で開催の『analogfish&mooolsと行く、冬の信州 甲府 皆神山 気脈巡りツアー2013』に出かけた。アナログフィッシュは、志村正彦、フジファブリックとゆかりの深いバンド。「志村日記」の2004年5月2日にはこうある。

新宿ロフトにアナログフィッシュを観に行く。
凄くグッと来た。なんか頭の中がドワーッとなる感じ。
連続するキメも気持ちよかった。


 志村正彦が「凄くグッと来た」と書いたアナログフィッシュ。いったいどんな音楽なのだろうか。9月下旬、桜座でライブがあることを知るとすぐに予約を入れ、新譜の『NEWCLEAR』と旧譜の『ROCK IS HARMONY』と『KISS』を手に入れ、当日までに聞きこむことにした。youtubeの映像やネット上の記事も探した。

 こんなにも質の高い独創的なスリーピースバンドがあったのだなという驚きが初めにもたらされた。ギター、ベース、ドラムの三つの楽器による複合的な厚みを持つリズム。それに乗って繰り広げられる二人の言葉と歌声、三人によるハーモニー。下岡晃の鋭さと深さ、佐々木健太郎の伸びやかさと陰影。二人を支える斉藤州一郎の抑制の効いた正確なビート。スリーピースであるという必然性を感じる音楽だ。そしてこの時代において、志村正彦とは異なる方法論で、言葉を、メッセージを、非常に大切にしているバンドだということが分かった。桜座ツアーへの期待が高まっていった。

 私の自宅からは車で10分ほどで桜座に着く。甲府の中心街にある桜座は、いわゆる「ライブハウス」ではなく、不思議な「小屋」だと言うしかない場だ。もともと、明治から昭和初めまで、甲府の桜町に「櫻座」という芝居小屋があった。その伝統と記憶を復活させるために、名前を受け継ぎ、場所を少し移し、ガラス工場を改築して、2005年6月、新しい「桜座」が誕生した。

 工場を直したため、天井がかなり高く、音が抜ける構造であり、いわゆる「デッド」な響きの音となる。聴き手は座布団に座り、すぐ前に演奏家がいるので、距離が近く、他の会場では味わえない雰囲気がある。桜座の独特な雰囲気と音の素晴らしさが音楽家にも好評で、最近は以前よりライブの回数が増えてきた。

 江戸時代の甲府に遡る。甲府は幕府直轄領になり、甲府勤番が置かれた地だ。独自の「藩」文化が育たない代わりに、江戸の文化とは意外に直結していた。芝居小屋もたくさんあり、市川団十郎など江戸の歌舞伎がよく演じられていた。甲府で評判が良いと江戸でも必ずそうなると言われていたようだ。江戸の甲府の街には、それなりに人々が愉しむ場があったらしい。

 今、甲府の中心街は、他の地方都市と同様にさびれてしまっている。東京には日帰りで遊びや買い物に行ける距離にあることが逆に災いとなって、若者が集うような街の文化が育たない。そのような状況で、「桜座」のプロジェクトが始まったのは歓迎すべきことだった。甲府の街の一つの拠点となる可能性があるからだ。これまで私も、早川義夫・佐久間正英のユニット、遠藤賢司、森山威男(山梨・勝沼生まれの最高のジャズドラマー)、梅津和時・こまっちゃクレズマなど、ここでしか聴くことのできない音楽に出会いに行った。今年は6月に、向井秀徳アコースティック&エレクトリックのライブを聴いた。

 桜座に入る。客は百人くらいだが、おそらく半数以上いや3分の2以上が県外から来られた方だと推測される。アナログフィッシュとモールスの熱心なファンがほとんどだろうが、中には私たちのような志村正彦ファンも混じっているかもしれない。桜座の最近の動員はまずまずのようだが、県内の客が少ないのがとても残念だ。

 ライブはアナログフィッシュの『PHASE』から始まった。斉藤州一郎と佐々木健太郎のリズムセクションは、「怜悧な熱狂」とでも言えるような凄みを持つ。そのリズムに巧みな脚韻と切れの良い歌詞が絡み合い、言葉と律動の独特な複合感が生まれる。このようなサウンドは洋楽を含めて他に類例がない。志村正彦が書いた、「凄くグッと」「頭の中がドワーッと」という形容、「連続するキメ」の気持ちよさとは、このような感触なのかもしれない。
 
 スリーピースバンドにはロックの原型がある。必要でないものをそぎ落とした音ゆえに、逆に、三人の音や声が透きとおるように空間に広がっていく。桜座という素晴らしい環境を得て、アナログフィッシュの奏でる空間の感触に魅了された。  (この項続く)

2013年11月17日日曜日

「レコード持って」-CD『フジファブリック』2 (志村正彦LN 57)

 前回、メジャー第1作CD『フジファブリック』がアナログ盤LPレコードとして発売されたらという「ないものねだり」の夢想を語った。
 とは言っても今、私自身、学生時代によく聴いていたLPレコードとプレーヤーは物置に置いてある。ほとんどCDで買い直してあるのだが、それでもやはり、LPを処分することはできない。いつだったか、20年ぶりくらいに、レコードを梱包した包みをほどいたことがあった。封印を解くかのように現れたLP盤、ジャケットのデザイン、絵や写真やロゴ、紙製であるゆえのやわらかい手触り、物質としてのレコードはとても強い記憶の喚起力を持っていて、私はすぐに学生の頃住んでいた東京のアパートの部屋にワープしていった。

 おそらく今よりももっと切実に音楽を聴いていた日々があった。十代から二十代の感性でしか出会えないような音楽がある。切実に向き合うという意味で。ロックはそのような経験の代名詞だ。現在の私はその経験の残滓を言葉で補填して、このようなエッセイを書いているにすぎない。(もちろん、言うまでもなく、どのような年代にでも、音楽は開かれている。ただし、ロックの場合、ある種の若さ、未熟さのようなものが出会いの契機となり、聴くことを深めていく。それは若者の特権でもある)

 『フジファブリック』収録曲に、『サボテンレコード』という、志村正彦でしか作りえないと断言できるような歌がある。彼の音楽的な素養が、狭義のロックを超えて、より豊かなものであったことを証明する楽曲だが、歌詞も、「ちょっとへんてこりんなのに、せつなく、いとしい」という、彼の独創的な歌の系譜に位置する作品だ。
 歌の主体は、「ならば全てを捨てて あなたを連れて行こう」と決意する。

  何も意味は無かったが ステレオのスウィッチ
  入れて 30年遡り かけた音楽
  それはボサノバだったり ジャズに変えては まったり
  リズム チキチキドン チキチキドンドコ


 音楽は時間を遡る。「何も意味は無かったが」、それはかけがえのないものだ。「チキチキドン チキチキドンドコ」のリズムにのって、人を大切な時へと瞬間移動させる「タイムマシーン」だ。
 だから、「全てを捨てて」も音楽を捨て去ることはできない。「今夜 荷物まとめて」、「サボテン持って レコード持って」旅立つことになる。花を咲かせることのあるサボテン。アナログ盤にまちがいないレコード。志村正彦らしいアイテムだ。
 

 今、アナログ盤をめぐる状況はどうか気になったので、ネットで調べてみた。RO69がNMEと提携しているニュース(2013.10.18)に、「英アナログ盤が過去10年で最大のセールスに」と題した記事が掲載されていた。(http://ro69.jp/news/detail/90762
 すでに昨年比100パーセント以上の売上増となり、アルバム全体のシェアでも0.8パーセントとなってるそうだ。イギリス・レコード産業協会(BPI)代表ジェフ・テイラー氏の言葉が紹介されている。

 アナログ盤について私たちは今その復活を目撃しているわけで、もはやレトロ好きのものではなくなり、音楽ファンにとってますます一つの選択として注目されてきているのです。今もマーケット全体に占めるシェアは小さいものですが、大抵はMP3のダウンロード・コードも付録としてついてきているアナログ盤レコードの、特に12インチというサイズのジャケットに施されたアートワークやライナーノーツ、またその独特なサウンドの魅力を新しい世代のリスナーが発見していて、それに伴って売上は急速に伸びています。

 やはり、ジャケットのアートワーク、ライナーノーツ、独特なサウンド、という三つの魅力が指摘されている。それに加えて大抵はMP3のダウンロード・コードが付いているのは初めて知ったが、こういうアイディアにはとても感心した。つまり、コレクションアイテム、愛蔵品としてはアナログ盤、デジタル音源としてはMP3、両者の良さを合わせ持った「ハイブリッド」的な商品作りをしている。その観点からすると、コンパクトディスクはデジタル音源の記録媒体としての意味合いしかなくなり、魅力のうすい中途半端なものとなるだろう。
 このような商品の場合、コスト増は否めないが、パッケージメディアがこれからも商品として存続するためには、このような試みも必要だ。試行錯誤が今後も続くのだろう。

 志村日記(『東京、音楽、ロックンロール 完全版』[ロッキング・オン])の2006年3月8日の記述「でかけた」にはこうある。 

で、昨日は片寄さん夫婦宅にお邪魔しました。譲ってもらうレコードプレーヤーを取りにいったんですが、色んな話をしました。

ビートルズのオリジナル盤も聴かせてもらいました。PUNKでした。宝の山でした。片寄さんもオタクど真ん中です。俺も欲しい盤あるから気合い入れてレコード屋へ足を運ぼうかなと。

 片寄明人・ショコラ夫妻にも感化されて、志村正彦のレコード愛も高まっていったようだ。彼が一番、フジファブリックのCDのアナログ盤を欲しがっていたのかもしれない。この日の日記を読んで、そんなことをしきりに想う。
  (この項続く)

2013年11月10日日曜日

ないものねだりの空想-CD『フジファブリック』1 (志村正彦LN 56)

 9年前の今日、2004年11月10日に、フジファブリックのメジャーデビュー作『フジファブリック』がEMIジャパンから発売された。すでに、インディーズでの2枚のCD『アラカルト』『アラモード』、それらの楽曲を再録音したプレデビューCD『アラモルト』の3枚の「アラ~」アルバムが発表されていたが、この日は、メジャーという世界にアルバムデビューした記念すべき日だ。今朝から繰り返し聴き、思い浮かんできた様々なことを、数回に分けて書き連ねたい。

 コンパクトディスクを手に取る。柴宮夏希さんと志村正彦自身によるジャケットのデザイン。フジファブリックのメンバー5人が溶け出すような不思議な絵と七色の虹のような線が独特の印象をもたらす。歌詞のブックレット、内側にスタジオでのメンバーの写真。その部屋のモチーフがデザインされ、CDの表面にモノクロでプリントされている。クレジットのSPECIAL THANK の冒頭には、オリジナルメンバーだった渡辺隆之の名。志村正彦の彼に対する想いが伝わる。

 そのうち、このCDがLPレコードのアナログ盤として発売されていたらどうだったのか、というあるはずもない想像をして遊ぶことになった。「ないものねだり」の空想だ。
  柴宮さんのイラストはもっと大きな面の方が栄える。虹色の7本のラインもすっと延びて、見開きの裏側には、全10曲の歌詞が並んで、志村正彦の詩的世界が広がる。こんなジャケットであれば、部屋の一角に立てかけておくか、フレームに入れて壁に飾るか、色々と工夫ができる。

 私たちのような、70年代前半のLPレコードのジャケットの黄金時代に、ロックのアルバムを聴き始めた世代にとって、80年代以降のCDへのメディア変更による、30センチ四方の紙製ジャケットという「キャンパス」の喪失は何よりも残念なことであった。特に、70年代前半の英国ロックのジャケットは、極東の島国に住む若者たちにとって何よりも、ポップな「アート」を感じさせるものだった。(長い時間にわたるが、CDが売れなくなってきたのは、このようなアートが失われてしまったからだという気もしている)

 いつもはPCに接続した小さなスピーカーで聴きながら原稿を書いているが、今日は「ステレオのスウィッチ入れて」、ヴォリュームを上げ、大音量で鳴らした。
 ロックだ。あたりまえのことかもしれないが、ものすごく「ロック」を感じる。それも70年代前半の「ニューロック」(懐かしい言葉だ)と呼ばれていた時代の音の感触に近い。「ニューロック」をバンド名で象徴するのなら、レッド・ツェッペリンになるだろうか。歌詞と楽曲が、言葉とサウンドが、それ以前の時代の「ロック」や「ロックンロール」より、はるかに高度に美しく結びついたのが「ニューロック」だった。

 音源そのものも、デジタルっぽくないというかアナログのような感じがする。加工しすぎていない、素のサウンド、素のうねりのようなリズムを活かしている。プロデューサーの片寄明人は「僕は少なくともこの1stアルバムまではメンバーの音だけで、しかもアナログな音で創り上げるべきだと強く思っていた」と書いている(『フジファブリック4』(片寄明人 公式Facebook、https://www.facebook.com/katayose.akito/notes)。 『FAB BOOK』にもメンバーによる同様の証言があるが、このねらいは充分に実現されている。ロンドンのアビーロードスタジオで、スティーヴ・ルークによるマスタリングが施されたことも大きいのだろう。

 LPレコードであれば、当然、A面とB面という構成になる。全10曲だから5曲ずつになるだろう。

  A面
   1.桜の季節
   2.TAIFU 
   3.陽炎 
   4.追ってけ追ってけ
   5.打上げ花火 
  B面
   1.TOKYO MIDNIGHT
   2.花
   3.サボテンレコード
   4.赤黄色の金木犀
   5.夜汽車

 想像の世界で、LPをターンテーブルに置く。A面、表面は、『桜の季節』という「始まり」の季節、『陽炎』という「追憶」の季節、志村正彦にしか表現しえないような春・夏盤のモチーフ、「TAIFU」「追ってけ追ってけ」のユニークなリズムと言葉の感覚、「打上げ花火」のプログレッシブ・ロック風味の展開というように、「クラッシック・ロック」の王道を踏みしめると共に、「類い希な日本語ロック」の道を歩み始めている。

 LPをひっくり返す。B面は、裏面らしく、「TOKYO MIDNIGHT」から「夜汽車」へと、A面最後の「打上げ花火」から続く「夜」の時間が底流にある。「花」「サボテンレコード」「赤黄色の金木犀」という流れ、花や植物という志村正彦の愛したモチーフが続く三つの作品。季節は秋へと移り、「夜汽車」で帰路につくように静かに終わっていく。A面の「動」と「昼」、B面の「静」と「夜」という対比も、仮想の聴き手は感じとるだろう。そして、この音源には黒いビニールのLPレコード盤がしっくりくるような気がしないだろうか。

 ここまで書いてくると、『フジファブリック』のアナログLPを現実に欲しくなってくる。「ないものねだり」の欲望だと思われるかもしれないが、もうすぐbloodthirsty butchersの「kocorono」が限定1000セットで初のアナログLPになって発売される。5月に急逝した吉村秀樹(孤高の優れた歌い手であり詩人である。かつて志村正彦も一緒に小さなツアーをしたことがある)の長年の希望だったようだ。このような追悼の形は音楽家への敬意があふれている。

 来年は、フジファブリックのメジャーデビュー10周年となる。志村正彦在籍時のフジファブリックを新たに見つめ直す良い契機となる。収録済みだが未発売のライブの音源・映像などがまだいくつかあると思われる。フジファブリックのファンはそのような音源・映像を今まで「ないものねだり」してきたのだが、少しでもいいから、「ないもの」が「あるもの」になりますようにと、願わずにはいられない。
  (この項続く)

2013年11月4日月曜日

ベスト3 (ここはどこ?-物語を読む 6)

 『笑ってサヨナラ』を聴いていて、私的に志村正彦のベスト3を作るとしたらこの曲は外せないなと思った。細々と状況を伝えることばを連ねるわけではないのに、彼女との関係や状況が目に浮かぶようだし、サビの部分の「どうしてなんだろう」には後悔や悲しみや迷いや割り切れなさ……さまざまな心の動きが凝縮されていてとても切ない。それはおそらく多くの人が一度や二度体験したことがあるもので、この曲を聴くとその時の感情が呼び戻されるような気がするのだ。

  恋愛などというものからとっくに遠ざかっているオバサンでも、人生には「どうしてこうなってしまったのか」とか「どこでまちがえたんだろう」とくよくよする事態は降ってくる。若い頃は年を重ねたら少しは賢くなるかと思っていたのに、現実はたいして成長せず、同じ間違いを繰り返しては反省の堂々巡りをする。だからオバサンにもこの歌は沁みる。

 ベスト3(順不同)のあとの2曲はと考えて、さてどうしたものか、かなり迷う。 『陽炎』はね、入れなきゃ。『茜色の夕日』もね。でも、そうすると『赤黄色の金木犀』とか入らないし、『TAIFU』や『虹』みたいなアップテンポのものも入れたい。 うーん、どうしようとしばらく悩んでいて、いいことを思いついた。

 ベスト3だからいけないんだ。ベスト5にしよう。なんで早く思いつかなかったんだろう。我ながら妙案に気をよくして、指を折りながらもう一度並べてみる。 『笑ってサヨナラ』『陽炎』『茜色の夕日』『虹』『TAIFU』……あれ、『赤黄色の金木犀』は? それに『夜汽車』好きなんだよな。『ペダル』や『ないものねだり』も。『ルーティーン』を落とすのはしのびないし、『地平線を越えて』も大好きだし、『若者のすべて』や『桜の季節』が入らないのは納得がいかない。仕方がない。いっそベスト10にしよう。

 ……馬鹿である。そもそも誰に頼まれたわけではないのに勝手にベスト3を選定しようとしてさんざん悩んだあげく、姑息に範囲を拡大したのだが次々に候補曲が頭になだれ込んで収拾がつかなくなってしまった。三〇分ほど考えたが、結局決めあぐねて諦めることにした。

 こう書いていると「それはあなたが優柔不断だからでしょう」と言われそうだが、「それがそうでもないのです」と申し上げたい。例えば、好きな映画ベスト3とか、好きな役者ベスト3とか、好きな果物ベスト3とかだったら即座に答えられる。だから、やはりこれは志村正彦の責任なのである。

 すみません、志村正彦さん。わかっていたつもりだったけど、まだまだあなたを甘く見てました。粒ぞろい、それも大粒の粒ぞろいのこんなにすばらしい歌をいっぱい作ってくれてありがとう。
 さて、皆さんのベスト3はどの曲でしょう?