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2013年10月14日月曜日

自分自身を聴き、読むこと-『若者のすべて』11 (志村正彦LN 52)

 作品の言葉だけではなく、志村正彦自身の貴重な発言にも導かれながら、『若者のすべて』の語りの枠組みや構造の分析を重ねてきた。彼の唱える「歩行」を意識して、ゆっくりと時間をかけて、できるだけ丁寧に、一つひとつの言葉を歩もうとしてきた。出発の前におぼろげな道筋はあったが、どのように歩き、どのような地点にたどりつくのか、確かだったわけではない。歩んでいくうちに、道が見えにくくなったり、分かれてしまったりもしていた。「それなりになってまた戻って」歩み、錯綜とした道になり、難渋したので、飛躍や矛盾も含まれているかもしれない。

 前回、二つの系列、「僕-歩行」系列と「僕ら-最後の花火」系列との複合を指摘する地点まで歩みを進めた。今回と次回、ようやく見えてきた最後の(今回の歩みの「最後」という意味にすぎないが)終着点を描き、この論を完結させたい。 (論の歩みの中で、「路地裏の花」のような周縁的なモチーフにも幾つか出会うことができた。これらの点については、別の形でいつか再び歩み始めたい)

 一連の論では、『若者のすべて』の解釈については、部分的なものに限定した。歌の全体の解釈には未だにたどりついていない。この作品は、全体というよりも、部分が、断片が聴き手に作用するような気もする。
 志村正彦の歌は多様な解釈が可能である。解釈は、一人ひとりの聴き手の「聴く」あるいは「読む」という行為の過程で作られていく。作品の意味は作品に内在しているわけではない。作品には音や文字の記録があるだけで、それそのものは、意味が満たされていない記号として存在しているにすぎない。記号に意味を見いだすのは受け手側である。作者も例外ではない。作品を作る過程で、完成した時点ではなおさらに、受け手側、聴き手や読み手という立場で作品に接し、解釈を行う。

 歌を聴き、歌を読みとる行為は、究極的には、自分自身を聴き、読みとる行為である。時の経過によって、場の移動によって、自分自身の変化によって、あるいは偶然の出来事によって、解釈は変わっていく。LN6で述べたように、志村正彦も、2007年12月の両国国技館ライブで、『若者のすべて』を作り終えた後に聴くと、「同じ歌詞なのに 解釈がちがう」という経験を伝えている。歌の作者自身であっても、私たちのような単なる聴き手であっても、本質的に、解釈が自分自身を聴き、読みとる行為である以上、解釈は変化していく。

 この夏話題となったドラマ『SUMMER NUDE』は、「最後の最後の花火」の場面でかつての恋人が「再会」できたかどうかという解釈の違いを物語の展開に活かした。作中人物である二人の主体的な行為であり、当然、どちらの解釈も成り立つ。結局、二人は各々、自分の物語を聴き、読みとったのだから。そして、二人の各々の物語が二人のその後の行動にどう影響を与えるのかという問いの方が、物語の重要な鍵となる。

 解釈は聴き手や読み手のものであり、聴き手や読み手のあらゆる解釈は肯定される。言葉で作られた作品に対して、正しい解釈も誤った解釈もない。ポール・ド・マンの言うように、すべての読みは誤読である。
 聴くこと、読むことは誤ることであり、偏ることである。聴くこと、読むことそのものが、ある誤り、ある偏りを必然的に含む。私の試みた作品の枠組みの分析は、解釈や意味の次元ではなく形式や構造の次元であるので、幾分かの客観性を持つかもしれないが、それでもやはり、誤読であることを免れることは不可能だ。
 しかし、読みの可能性を広げるような誤読とそうでない誤読との違いはあることも確かだ。作品を開かれたものにする読み、作品を聴き直し読み直す行為を促すような読み、固定した解釈を揺り動かす読み、そのような読みが豊かな誤読なのだろう。そのような質の読みを目指したいものだ。

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